長短経 / 覇図
漢王因項羽之撃齊、率諸侯之師五十六萬、東襲楚、破彭城。羽聞之、留其將撃齊、自以精兵三萬歸撃漢。漢王與羽大戰彭城下。漢王不利、出梁地、至虞、謂左右曰、「孰能為使淮南王黥布、令發兵背楚、留項王於齊數月、我之取天下、可以萬全。」隨何乃使淮南、説布背楚。
新字:漢王因項羽之撃斉、率諸侯之師五十六万、東襲楚、破彭城。羽聞之、留其将撃斉、自以精兵三万帰撃漢。漢王与羽大戦彭城下。漢王不利、出梁地、至虞、謂左右曰、「孰能為使淮南王黥布、令発兵背楚、留項王於斉数月、我之取天下、可以万全。」随何乃使淮南、説布背楚。
書き下し
漢王、項羽の斉を撃つに因り、諸侯の師五十六万を率いて、東のかた楚を襲い、彭城を破る。羽、之を聞き、其の将を留めて斉を撃たしめ、自ら精兵三万を以て帰りて漢を撃つ。漢王、羽と大いに彭城の下に戦う。漢王利あらず、梁地に出で、虞に至り、左右に謂いて曰く「孰か能く為に淮南王黥布に使いし、兵を発して楚に背かしめ、項王を斉に留むること数月ならば、我の天下を取ること、以て万全なる可し」と。随何、乃ち淮南に使いし、布に説きて楚に背かしむ。
現代語訳
漢王は項羽が斉を攻めている隙に、諸侯の軍五十六万を率いて東の楚を襲い、彭城を破った。項羽はこれを聞き、部将を残して斉を攻めさせ、自ら精兵三万を率いて戻って漢を撃った。漢王は項羽と彭城の下で大戦し、敗れて梁の地へ出て、虞に至り、側近に言った。「誰か私のために淮南王黥布のところへ使いして、兵を出して楚に背かせ、項王を斉に数か月留めてくれる者はいないか。そうなれば私の天下取りは万全になる」。随何がそこで淮南へ使いし、黥布に説いて楚に背かせた。
解説
五十六万が三万に敗れた戦です。数の優位が何の役にも立たなかった直後に、劉邦が求めたのは兵ではなく使者一人でした。項羽を数か月斉に釘付けにできれば十分だ、と。正面から量で押して負けた人が、次の手で時間の配分に切り替える。負け方から何を学ぶかで、その後が決まります。五十六万を集められる立場の人が、次に欲しがったのが使者一人だったことに、この人の柔らかさが出ています。同じ土俵で取り返そうとしなかった。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
覇図彭城劉邦項羽黥布随何
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『長短経』時宜又た高祖、五諸侯の兵を劫かして、彭城に入る。項羽之を聞き、乃ち兵を引きて斉を去り、漢と睢水の上に大いに戦い、大いに漢軍を破り、多く士卒を殺す。睢水為に流れず。此れ情を異にする者なり。〔荀悦曰く「趙を伐つの役、韓信は泜水に軍して、趙は敗ること能わず。何ぞや。彭城の難、漢王は睢水の上に戦い、士卒は睢水に赴き入りて楚兵大いに勝つ。何ぞや。趙兵は国を出でて能く可を見て進み、難を知りて退き、深く内顧の心を懐き、必死の計を為さず。韓信は孤軍にて水上に立ち、必死の計有りて、生の慮り無し。此れ信の勝つ所以なり。漢王は敵を制して国に入り、飲酒高会し、士衆は逸豫し、戦心同じからず。楚は強大の威を以て、其の国都を喪い、項羽は外より入り、士卒皆憤激の心有り、敗を救い亡に赴き、以て一旦の命を決す。此れ漢の敗るる所以なり。且つ韓信は精兵を選びて以て守り、而して趙は内顧の士を以て之を攻む。項羽は精兵を選びて以て漢を攻め、而して漢王は懈怠の卒を以て之に応ず。此れ事同じくして情異なる者なり」と。故に曰く、権は預め設くべからず、変は先に図るべからず。時と与に遷移し、物に応じて変化するは、計策の機なり。〕
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『長短経』覇図項王、解きて東す。漢王、西せんと欲す。張良曰く「今、漢は天下の大半を有ちて、諸侯皆な附く。楚兵は疲れ、食は尽く。此れ天の楚を亡ぼすの時なり。其の東するに因りて之を取るに如かず」と。漢王乃ち羽を追う。斉王韓信・魏相彭越と、期して会して楚を撃たんとするも、皆な会せず。張良の計を用い、信等皆な兵を進めて羽を垓下に囲み、遂に項氏を滅ぼす。〈漢王、張良に問いて曰く「諸侯従わず。奈何」と。良曰く「楚兵、且に破れんとするに、未だ分地有らず。其の至らざるは固より宜なり。君王、能く与に天下を共にせば、立ちどころに致す可きなり。斉王信の立つは、君王の意に非ず。信も亦た自ら堅からず。彭越は本と梁地を定む。始め君、魏豹の故を以て、越、相国と為るを拝するを得たり。今、豹死し、越も亦た王を望む。而るに君王、早く定めず。今、能く睢陽以北より穀城に至るを取りて、以て彭越を王とし、陳より以東海に傅うるを、斉王信に与えよ。信の家は楚に在り。其の意、復た故邑を得んと欲す。能く此の地を出捐して、以て両人に許し、各々自ら為に戦わしめば、則ち楚は破り易からん」と。是に於て漢王、使いを発し、韓信・彭越・劉賈等をして皆な兵を引きて羽を垓下に囲ましむ。〉
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史記 高祖本紀新城の三老董公遮りて漢王に説くに義帝の死せし故を以てす。漢王之を聞き、袒して大いに哭す。遂に義帝の為に喪を発し、臨すること三日。使者を発して諸侯に告げて曰く、「天下共に義帝を立て、北面して之に事ふ。今項羽義帝を江南に放殺す、大逆無道なり。寡人親ら為に喪を発す、諸侯皆縞素せよ。悉く関内の兵を発し、三河の士を収め、南のかた江漢に浮かびて以て下り、願はくは諸侯王に従ひて楚の義帝を殺せし者を撃たん。」と。是の時項王北のかた斉を撃つ、田栄与に城陽に戦ふ。田栄敗れ、平原に走る、平原の民之を殺す。斉皆楚に降る。楚因りて其の城郭を焚焼し、其の子女を系虜す。斉人之に叛く。田栄の弟横栄の子広を立てて斉王と為す、斉王楚に城陽に反す。項羽漢の東すと聞くと雖も、既已に斉の兵と連なる、遂に之を破りて漢を撃たんと欲す。漢王故を以て五諸侯の兵を劫かすを得て、遂に彭城に入る。項羽之を聞き、乃ち兵を引きて斉を去り、魯より胡陵に出で、蕭に至り、漢と彭城の霊壁の東睢水の上に大いに戦ひ、大いに漢の軍を破り、多く士卒を殺す、睢水之が為に流れず。乃ち漢王の父母妻子を沛に取り、之を軍中に置きて以て質と為す。是の時に当たりて、諸侯楚の彊く漢の敗るるを見て、還りて皆漢を去りて復た楚と為る。塞王欣亡げて楚に入る。呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐ、下邑に居る。漢王之に従ひ、稍々士卒を収め、碭に軍す。漢王乃ち西のかた梁の地を過ぎ、虞に至る。謁者随何をして九江王布の所に之かしめて、曰く、「公能く布をして兵を挙げて楚に叛かしめば、項羽必ず留まりて之を撃たん。留まること数月を得ば、吾天下を取ること必せり。」と。随何往きて九江王布に説く、布果たして楚に背く。楚龍且をして往きて之を撃たしむ。漢王の彭城に敗れて西するや、行くゆく人をして家室を求めしむ、家室も亦亡げ、相得ず。
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