長短経 / 正論
漢武時、巫為上致神君、神君但聞其聲、不見其形。荀悦曰、“《易》稱、有天道焉、有地道焉、有人道焉。各當其理而不相亂、亂則有氣變而然。若夫大石自立、僵栁復生、此形之異也、男化為女、死而復生、此含氣之異也、鬼神髣髴在于人間、言語聲音、此精神之異也。夫形神之異、各以類感。善則生吉、惡則生凶精氣之際、自然之符異也。故逆天之理、則神失其節、而妖神妄興、逆地之理、則形失其節、而妖形妄生、逆中和之理、則含氣失其節、而妖物妄出。此其大㫖也。若夫神君之類、精神之異也。”
新字:漢武時、巫為上致神君、神君但聞其声、不見其形。荀悦曰、“《易》称、有天道焉、有地道焉、有人道焉。各当其理而不相乱、乱則有気変而然。若夫大石自立、僵栁復生、此形之異也、男化為女、死而復生、此含気之異也、鬼神髣髴在于人間、言語声音、此精神之異也。夫形神之異、各以類感。善則生吉、悪則生凶精気之際、自然之符異也。故逆天之理、則神失其節、而妖神妄興、逆地之理、則形失其節、而妖形妄生、逆中和之理、則含気失其節、而妖物妄出。此其大旨也。若夫神君之類、精神之異也。”
書き下し
漢武の時、巫、上の為に神君を致す。神君は但だ其の声を聞くのみにして、其の形を見ず。荀悦曰く「易に称す『天道有り、地道有り、人道有り』と。各々其の理に当たりて相い乱れず。乱るれば則ち気の変ありて然り。夫の大石自ら立ち、僵柳復た生ずるが若きは、此れ形の異なり。男化して女と為り、死して復た生くるは、此れ含気の異なり。鬼神髣髴として人間に在り、言語声音するは、此れ精神の異なり。夫れ形神の異は、各々類を以て感ず。善なれば則ち吉を生じ、悪なれば則ち凶を生ず。精気の際、自然の符異なり。故に天の理に逆らえば、則ち神は其の節を失いて、妖神妄りに興る。地の理に逆らえば、則ち形は其の節を失いて、妖形妄りに生ず。中和の理に逆らえば、則ち含気は其の節を失いて、妖物妄りに出づ。此れ其の大旨なり。若し夫れ神君の類は、精神の異なり」と。
現代語訳
漢の武帝のとき、巫女が帝のために神君を招いた。神君はその声が聞こえるだけで、姿は見えなかった。荀悦はこう言った。「易には『天の道があり、地の道があり、人の道がある』とある。それぞれの理に当たって互いに乱れない。乱れるのは気の変化があるからである。大きな石がひとりでに立ち、倒れた柳がまた生きるようなものは形の異変である。男が女に変わり、死んだ者がまた生き返るのは、気を含むものの異変である。鬼神がぼんやりと人の世にいて、言葉や声を発するのは精神の異変である。形と神の異変は、それぞれ同類のものに感応する。善であれば吉を生じ、悪であれば凶を生じる。精気のあいだの、自然のしるしとしての異変である。だから天の理に逆らえば神がその節度を失って妖しい神がみだりに興り、地の理に逆らえば形がその節度を失って妖しい形がみだりに生じ、中和の理に逆らえば気を含むものが節度を失って妖しいものがみだりに現れる。これがその大筋である。神君の類は精神の異変である」。
解説

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