茶の本 / 第五章 芸術鑑賞・あまりに分類し過ぎて楽しむことが少ない
進化論の盛んであった十九世紀には、人類のことを考えて個人を忘れる習慣が作られた。収集家は一時期あるいは一派を説明する資料を得んことを切望して、ただ一個の傑作がよく、一定の時期あるいは一派のいかなる多数の凡俗な作にもまさって、われわれを教えるものであるということを忘れている。われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒であった。
書き下し
進化論の盛んであった十九世紀には、人類のことを考えて個人を忘れる習慣が作られた。収集家は一時期あるいは一派を説明する資料を得んことを切望して、ただ一個の傑作が、よく一定の時期あるいは一派のいかなる多数の凡俗な作にもまさって、われわれを教えるものであるということを忘れている。われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒であった。
現代語訳
進化論の盛んだった十九世紀には、人類のことを考えて個人を忘れる習慣が作られました。収集家は、ある時期や流派を説明する資料を得ようと切望して、ただ一つの傑作が、ある時期や流派のどれほど多数の凡庸な作よりも私たちを教えるものだということを忘れています。私たちはあまりに分類しすぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために美的な方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒でした。
解説
分類しすぎて楽しむことが少ない、という一句が今日にも刺さります。時代や流派を説明する資料を揃えることに熱心で、一つの傑作から学ぶことを忘れる。網羅と理解は別物だという指摘です。博物館の陳列方式への批判として書かれていますが、あらゆる資料整理に当てはまります。分けて並べると分かった気になるが、分けることは味わうことではない。
この章句が説くこと
分類網羅博物館鑑賞科学
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