長短経 / 正論
潔淨精微而不賊、則深於《易》也。〔《易》之精微、愛惡相攻、逺近相取、則不能容人、近相害。之〕恭儉莊敬而不煩、則深於《禮》也。
新字:潔浄精微而不賊、則深於《易》也。〔《易》之精微、愛悪相攻、遠近相取、則不能容人、近相害。之〕恭倹荘敬而不煩、則深於《礼》也。
書き下し
潔浄精微にして賊わざれば、則ち易に深きなり。〈易の精微は、愛悪相い攻め、遠近相い取る。則ち人を容るる能わず、近くして相い害す。〉恭倹荘敬にして煩わしからざれば、則ち礼に深きなり。
現代語訳
清らかで細やかで人を害さなければ、易に深く通じている。〈易の細やかさは、愛と憎しみが攻め合い、遠いものと近いものが取り合う。そうなると人を容れられず、近いからこそ互いを害する。〉慎み深く重々しくて煩わしくなければ、礼に深く通じている。
解説
易に深く通じた人の陥りやすい失敗は、人を害することだと言います。物事を細かく読み解く力が、愛と憎しみを見分けすぎて人を容れられなくする。近いからこそ害するという指摘が怖い。洞察力は距離が近いほど鋭く働き、近い相手ほど正確に急所を突けるからです。よく見える人ほど、見えたことを言わない訓練が要ります。見えることと、見えたことを口にすることは別の能力です。

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正論易礼洞察行き過ぎ近き者
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