長短経 / 正論
故曰、入其國、其教可知也。其為人也、温柔敦厚、《詩》教也、疏通知逺、《書》教也、廣博易良、《樂》教也、潔浄精微、《易》教也、恭儉莊敬、《禮》教也、屬辭比事、《春秋》教也。故《詩》之失愚、《書》之失誣、《樂》之失奢、《易》之失賊、《禮》之失煩、《春秋》之失亂。其為人也、温柔敦厚而不愚、則深於《詩》也。
新字:故曰、入其国、其教可知也。其為人也、温柔敦厚、《詩》教也、疏通知遠、《書》教也、広博易良、《楽》教也、潔浄精微、《易》教也、恭倹荘敬、《礼》教也、属辞比事、《春秋》教也。故《詩》之失愚、《書》之失誣、《楽》之失奢、《易》之失賊、《礼》之失煩、《春秋》之失乱。其為人也、温柔敦厚而不愚、則深於《詩》也。
書き下し
故に曰く、其の国に入れば、其の教え知る可きなり、と。其の人と為りや、温柔敦厚なるは、詩の教えなり。疏通知遠なるは、書の教えなり。広博易良なるは、楽の教えなり。潔浄精微なるは、易の教えなり。恭倹荘敬なるは、礼の教えなり。辞を属ね事を比ぶるは、春秋の教えなり。故に詩の失は愚、書の失は誣、楽の失は奢、易の失は賊、礼の失は煩、春秋の失は乱なり。其の人と為りや、温柔敦厚にして愚ならざれば、則ち詩に深きなり。
現代語訳
だからこう言う。その国に入れば、そこで行われている教えが分かる。その人柄が温和で情が厚いのは詩の教えである。見通しがよく遠くまで知っているのは書の教えである。広く大らかなのは楽の教えである。清らかで細やかなのは易の教えである。慎み深く重々しいのは礼の教えである。言葉を連ね事を並べるのは春秋の教えである。そして詩の行き過ぎは愚かさ、書の行き過ぎは偽り、楽の行き過ぎは奢り、易の行き過ぎは人を害すること、礼の行き過ぎは煩わしさ、春秋の行き過ぎは乱れである。その人柄が温和で情が厚くて愚かでなければ、詩に深く通じているのである。
解説
六つの教えに、それぞれの長所と、行き過ぎた場合の症状が対で示されます。情が厚いのは詩の教えだが、行き過ぎると愚かになる。慎み深いのは礼だが、行き過ぎると煩わしくなる。長所がそのまま欠点の形をしている、という見方です。人や組織の欠点を見るとき、それがどの美点の行き過ぎなのかを探すと、直し方が変わってきます。
この章句が説くこと
正論六芸詩書楽礼
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