長短経 / 適変
《道徳經》曰、「我無為而人自化。」《文子》曰、「所謂無為者、非謂引之不來、推之不往、謂其循理而舉事、因資而立功、推自然之勢也。」〔故曰、「智而好問者聖、勇而好問者勝。乗衆人之智、即無不任也、用衆人之力、即無不勝也。故聖人舉事、未甞不因其資而用也。〕故曰、湯武、聖主也、而不能與越人乗舲舟、泛江湖。伊尹、賢相也、而不能與胡人騎原馬、服騊駼。孔、墨、博通也、而不能與山居者入榛薄、出險阻。
新字:《道徳経》曰、「我無為而人自化。」《文子》曰、「所謂無為者、非謂引之不来、推之不往、謂其循理而舉事、因資而立功、推自然之勢也。」〔故曰、「智而好問者聖、勇而好問者勝。乗衆人之智、即無不任也、用衆人之力、即無不勝也。故聖人舉事、未甞不因其資而用也。〕故曰、湯武、聖主也、而不能与越人乗舲舟、泛江湖。伊尹、賢相也、而不能与胡人騎原馬、服騊駼。孔、墨、博通也、而不能与山居者入榛薄、出険阻。
書き下し
道徳経に曰く「我無為にして人自ずから化す」と。文子に曰く「所謂無為とは、之を引くも来たらず、之を推すも往かざるを謂うに非ず。其の理に循いて事を挙げ、資に因りて功を立て、自然の勢いを推すを謂うなり」と。〈故に曰く「智にして問うを好む者は聖、勇にして問うを好む者は勝つ。衆人の智に乗ずれば、即ち任せざる無く、衆人の力を用うれば、即ち勝たざる無し。故に聖人の事を挙ぐるや、未だ嘗て其の資に因りて用いずんばあらず」と。〉故に曰く、湯・武は聖主なるも、越人と舲舟に乗じて江湖に泛ぶ能わず。伊尹は賢相なるも、胡人と原馬に騎り騊駼を服す能わず。孔・墨は博通なるも、山居の者と榛薄に入り険阻を出づる能わず。
現代語訳
老子にこうある。「私が何もしなければ民はおのずと化する」。文子にこうある。「いわゆる無為とは、引いても来ず押しても行かないことではない。道理に従って事を起こし、もともとあるものを元手として功を立て、自然の勢いを押してやることをいう」。〈だからこう言う。「賢くてよく問う者は聖であり、勇があってよく問う者は勝つ。多くの人の智に乗れば任せられないことはなく、多くの人の力を用いれば勝てないことはない。だから聖人が事を起こすときは、もとからある資を元手にしないことがない」。〉だからこう言う。湯王と武王は聖なる君主だったが、越の人と小舟に乗って川や湖に浮かぶことはできない。伊尹は賢い宰相だったが、胡の人と野生馬に乗り騊駼を乗りこなすことはできない。孔子と墨子は博学だったが、山に住む者と藪に分け入り険しい道を抜けることはできない。
解説
この章句が説くこと
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論語・陽貨篇子曰く、飽食終日、心を用うる所無きは、難いかな。博弈なる者有らずや。之を為すは、猶お已むに賢れり。
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老子・第37章道は常に無為にして而も為さざる無し。侯王若し能く之を守らば、万物は将に自ら化せんとす。化して作らんと欲すれば、吾れ将に之を鎮むるに無名の樸を以てせんとす。無名の樸は、夫れ亦た将に欲無からんとす。欲せずして以て静かなれば、天下は将に自ら定まらんとす。
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『信心銘』第十四章智者(ちしゃ)は無為(むい)、愚人(ぐにん)は自(みづか)ら縛(しば)る。法(ほう)に異法(いほう)無(な)きに、妄(みだ)りに自(みづか)ら愛著(あいじゃく)す。心(しん)を將(も)って心(しん)を用(もち)ゐる、豈(あ)に大錯(だいしゃく)に非(あら)ずや。