長短経 / 是非
《史記》曰、“藺相如因宦者繆賢見趙王。”又曰、“鄒衍作《談天論》、其語閎大不經、然王公大人尊禮之。適梁、梁恵王郊迎、執賓主之禮、如燕、昭王擁篲先驅。豈與仲尼菜色陳、蔡、孟軻困于齊、梁同乎哉?”衛靈公問陳於孔子、孔子不答、梁恵王謀攻趙、孟軻稱太王去邠。持方枘欲納圜鑿、其能入乎?或曰、伊尹負鼎而輔湯以王、百里奚飯牛、繆公用霸。作先合、然後引之大道。鄒衍其言雖不軌、亦將有牛鼎之意乎?
新字:《史記》曰、“藺相如因宦者繆賢見趙王。”又曰、“鄒衍作《談天論》、其語閎大不経、然王公大人尊礼之。適梁、梁恵王郊迎、執賓主之礼、如燕、昭王擁篲先駆。豈与仲尼菜色陳、蔡、孟軻困于斉、梁同乎哉?”衛霊公問陳於孔子、孔子不答、梁恵王謀攻趙、孟軻称太王去邠。持方枘欲納圜鑿、其能入乎?或曰、伊尹負鼎而輔湯以王、百里奚飯牛、繆公用覇。作先合、然後引之大道。鄒衍其言雖不軌、亦将有牛鼎之意乎?
書き下し
〔非に曰く〕史記に曰く「藺相如は宦者繆賢に因りて趙王に見ゆ」と。又た曰く「鄒衍、談天論を作る。其の語は閎大にして経ならず。然れども王公大人之を尊礼す。梁に適けば、梁の恵王は郊迎して賓主の礼を執る。燕に如けば、昭王は篲を擁して先駆す。豈に仲尼の菜色して陳・蔡し、孟軻の斉・梁に困しむと同じからんや」と。衛の霊公、陳を孔子に問う。孔子答えず。梁の恵王、趙を攻むるを謀る。孟軻は太王の邠を去るを称す。方枘を持ちて円鑿に納れんと欲す。其れ能く入らんや。或るひと曰く、伊尹は鼎を負いて湯を輔けて以て王たり、百里奚は牛を飯いて繆公用いて霸たり。先ず合するを作して、然る後に之を大道に引く。鄒衍、其の言は軌ならずと雖も、亦た将に牛鼎の意有らんか、と。
現代語訳
〔非の側。〕史記にこうある。「藺相如は宦官の繆賢を通じて趙王に会った」。またこうある。「鄒衍は談天論を作った。その語は壮大で常軌を外れていた。それでも王公大人はこれを尊び礼遇した。梁へ行けば、梁の恵王は郊外まで迎えて賓主の礼をとった。燕へ行けば、昭王は箒を持って先導した。孔子が顔色を失って陳と蔡で難儀し、孟子が斉と梁で行き詰まったのと、どうして同じであろうか」。衛の霊公が陣立てを孔子に尋ねた。孔子は答えなかった。梁の恵王が趙を攻める相談をした。孟子は太王が邠を去った話をした。四角いほぞを円い穴に入れようとする。どうして入ろうか。ある人は言う。伊尹は鼎を背負って湯王を助けて王とし、百里奚は牛を飼って繆公は覇者となった。まず相手に合わせておいて、そのあと大道へ引き込んだ。鄒衍の言葉は常軌を外れていたが、これも牛や鼎の意があったのではないか、と。
解説
この章句が説くこと
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『長短経』是非淮南子に曰く「夫れ毫釐の計に審らかなる者は、必ず天下の数を遺る。小物の選を失わざる者は、大事の挙に惑う。今、人才に九州を平らげ危国を存せんと欲する有り。而るに乃ち之を責むるに閨閤の礼を以てし、郷曲の俗を修めしむ。是れ猶お斧を以て毛を翦り、刀を以て木を伐るがごとし。皆な其の宜しきを失うなり」と。〔是に曰く〕商鞅、趙良に謂いて曰く「子、我が秦を理むるを観るに、五羖大夫と孰れか賢なるか」と。趙良曰く「夫れ五羖大夫は、荊の鄙人なり。繆公の賢を聞きて、望み見んことを願う。行くに資無く、自ら秦の客に鬻り、褐を被て牛を飯う。繆公之を知り、之を牛口の下より挙げて、之を百姓の上に加う。秦国、敢えて望む莫し。今、君の秦に見ゆるや、嬖人景監に因りて以て主と為す。名を為す所以に非ざるなり」と。
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『長短経』是非〔非に曰く〕人物志に曰く「君子は自ら損するの益たるを知る。故に功一にして美二なり。小人は自ら益するの損たるを知らず。故に伐ること一にして並びに失う。此に由りて之を観れば、則ち伐らざる者は之を伐つなり、争わざる者は之を争うなり、敵に譲る者は之に勝つなり。是の故に、卻至は人に上たりて、抑えらるること下ること滋いよ甚だし。王叔は争いを好みて、出奔に終わる。藺相如は車を迴らすを以て廉頗に勝を取り、寇恂は闘わざるを以て賈復に賢を取る。物勢の反は、乃ち君子の所謂道なり」と。
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『長短経』是非論語に曰く「逸民を挙ぐれば、天下の人、心を帰す」と。魏の文侯、芸を子夏に受け、段干木を敬し、其の廬を過ぐれば、未だ嘗て式せずんばあらず。是に於て秦、魏を伐たんと欲す。或るひと曰く「魏君は賢なり。国人は仁と称す。上下和洽す。未だ図る可からず」と。秦王乃ち止む。此に由りて誉を諸侯に得たり。〔非に曰く〕韓子曰く「夫れ馬は鹿に似たり、此の馬は千金に値す。今、千金の馬有りて、一金の鹿無き者は何ぞや。馬は人の用を為し、鹿は人の用を為さざればなり。今、処士は人の用を為さず、鹿の類なり。所以に太公は斉に至りて華士を斬り、孔子は司寇と為りて少正卯を誅す」と。
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『長短経』是非論語に曰く「君子は固より窮す。小人は窮すれば斯に濫る」と。〔非に曰く〕易に曰く「窮すれば則ち変じ、通ずれば則ち久し。是を以て天より之を祐く、吉にして利あらざる無し」と。太史公曰く「鄙人に言える有り『何ぞ仁義を知らん。其の利を饗くる者を以て徳有りと為す』と。故に伯夷は周を醜として首陽山に餓死す。而れども文武は其の故を以て王を貶せられず。跖・蹻は暴戻なるも、其の徒は義を誦して窮まり無し。此に由りて之を観れば『鈎を竊む者は誅せられ、国を竊む者は諸侯と為る。諸侯の門に仁義存す』とは、虚言に非ざるなり。今、拘学は或いは咫尺の義を抱きて、久しく代に孤なり。豈に論を卑くし俗に儕しくし、代と沈浮して栄名を取るに若かんや」と。
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『塩鉄論』論儒篇御史曰く、伊尹は割烹を以て湯に事え、百里は牛を飯いて穆公に要む、始めは茍合を為すも、信に然く之と霸王たり。此くの如くんば、何の言か從われざらん、何の道か行われざらん。故に商君は王道を以て孝公に說き、用いられず、即ち強國の道を以てし、卒に以て功を就す。鄒子は儒術を以て世主に干め、用いられず、即ち變化始終の論を以てし、卒に以て名を顯らかにす。故に馬の千里を效すは、必ずしも胡・代ならず、士の成功を貴ぶは、必ずしも文辭ならず。孟軻は舊術を守り、世務を知らず、故に梁・宋に困しむ。孔子は方なる能うも圓なる能わず、故に黎丘に饑う。今晚世の儒は德に勤むるも、時に乏匱有り、言以て非と為す、此に困しみて行われず。周室より以來、千有餘歲、獨り文・武・成・康有るのみ、如し言うに必ず一を參えば、及ぶ能わざる所を取りて之を稱するは、猶お躄者の能く遠きを言いて行く能わざるがごときなり。聖人は塗を異にして歸を同じくす、或いは行き或いは止まるも、其の趣は一なり。商君は法を革め教を改むと雖も、志は國を強くし民を利するに存す。鄒子の作、變化の術も、亦た仁義に歸す。祭仲の自ら貶損して以て權を行うは、時なり。故に小しく枉げて大いに直きは、君子之を為す。今硁硁然として一道を守り、尾生の意を引かば、即ち晉文の諸侯を譎きて以て周室を尊ぶも道うに足らず、而して管仲の恥辱を蒙りて以て亡を存するも稱するに足らざるなり。
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『長短経』是非〔是に曰く〕韓の宣王、摎留に謂いて曰く「吾れ両つながら公仲・公叔を用いんと欲す。其れ可ならんか」と。対えて曰く「不可なり。晋は六卿を用いて国分かれ、簡公は田成・闞止を用いて簡公弑せられ、魏は両つながら犀首・張儀を用いて西河の外亡ぶ。今、王、両つながら之を用いば、其の力多き者は内に其の党を樹て、其の力寡なき者は又た外権に藉る。群臣、或いは内に其の党を樹てて以て主命を擅にし、或いは外に勢交を為して以て其の地を裂かば、則ち王の国危うし」と。又た曰く、公孫衍、魏の将と為り、其の相田儒と善からず。季文子、衍の為に魏王に説きて曰く「王、独り夫の牛を服し驥を驂とするを見ずや。百歩す可からず。今、王、衍を以て将たらしむ可しと為し、固より之を用う。而るに相の計を聴くは、是れ牛を服し驥を驂とするの道なり。牛馬倶に死して其の功を成さずんば、則ち王の国傷つかん。願わくは王之を察せよ」と。〔非に曰く〕