長短経 / 是非
〔是曰〕《左傳》曰、“孔子嘆子産曰、‘言以足志文以足言、不言誰知其志言之無文、行而不逺。晉為伯、鄭入陳、非文辭而不為功。慎辭也哉!’”《論語》曰、“誦詩三百、授之以政、不達、使於四方、不能專對、雖多、亦奚以為?”〔非曰〕
新字:〔是曰〕《左伝》曰、“孔子嘆子産曰、‘言以足志文以足言、不言誰知其志言之無文、行而不遠。晋為伯、鄭入陳、非文辞而不為功。慎辞也哉!’”《論語》曰、“誦詩三百、授之以政、不達、使於四方、不能専対、雖多、亦奚以為?”〔非曰〕
書き下し
〔是に曰く〕左伝に曰く「孔子、子産を嘆じて曰く『言は以て志を足し、文は以て言を足す。言わずんば誰か其の志を知らん。言に文無ければ、行われて遠からず。晋、伯為り、鄭、陳に入る。文辞に非ずんば功を為さず。辞を慎まんかな』」と。論語に曰く「詩三百を誦し、之に授くるに政を以てして達せず。四方に使いして、専対する能わずんば、多しと雖も、亦た奚を以て為さん」と。〔非に曰く〕
現代語訳
〔是の側。〕左伝にこうある。「孔子が子産を称えて言った。『言葉は志を満たし、文飾は言葉を満たす。言わなければ誰がその志を知ろう。言葉に文飾がなければ、行われても遠くまで届かない。晋が覇者であり、鄭が陳へ入った。文辞がなければ功は成らなかった。言葉を慎むべきである』」。論語にこうある。「詩三百篇を暗誦していても、政治を任せて通じず、四方に使いして自分の判断で応対できなければ、いくら多く覚えていても、何の役に立とう」。
解説
言葉に飾りがなければ遠くまで届かない、という孔子の言葉です。飾りを軽んじる人への反論として、実務の成果を根拠に挙げているのが強い。鄭が陳へ攻め入った件が認められたのは、外交文書の出来によるものだった。中身が正しければ伝わる、という思い込みを、外交の実例が否定しています。論語の続きも同じ趣旨で、詩経を三百篇暗記していても、使者に出て自分の判断で応対できなければ意味がない、と。知識の量ではなく、その場で形にできるかが問われています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
是非子産孔子言に文あり外交伝える
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