長短経 / 是非
《語》曰、“祿薄者不可與入亂、賞輕者不可與入難。”慎子曰、“先王見不受禄者不臣、禄不厚者、不與入難。”〔非曰〕田單將攻狄、見魯仲子。仲子曰、“將軍攻狄、弗能下也。何者?昔將軍之在即墨、坐而織蕢、立而杖挿為士卒倡。此所以破燕。今將軍東有掖邑之奉、西有蕢上之娱黄金横帶、而馳乎淄澠之間、有生之樂、無死之心。所以不勝也。”後果然。
新字:《語》曰、“禄薄者不可与入乱、賞軽者不可与入難。”慎子曰、“先王見不受禄者不臣、禄不厚者、不与入難。”〔非曰〕田単将攻狄、見魯仲子。仲子曰、“将軍攻狄、弗能下也。何者?昔将軍之在即墨、坐而織蕢、立而杖挿為士卒倡。此所以破燕。今将軍東有掖邑之奉、西有蕢上之娱黄金横帯、而馳乎淄澠之間、有生之楽、無死之心。所以不勝也。”後果然。
書き下し
語に曰く「禄薄き者は、与に乱に入る可からず。賞軽き者は、与に難に入る可からず」と。慎子曰く「先王は、禄を受けざる者は臣とせず、禄厚からざる者は、与に難に入らざるを見る」と。〔非に曰く〕田単、将に狄を攻めんとし、魯仲子に見ゆ。仲子曰く「将軍、狄を攻むるも、下す能わざらん。何となれば、昔、将軍の即墨に在るや、坐しては蕢を織り、立ちては挿を杖つきて士卒の倡と為る。此れ燕を破りし所以なり。今、将軍は東に掖邑の奉有り、西に蕢上の娯有り、黄金は横帯して、淄・澠の間に馳す。生を楽しむ有りて、死する心無し。勝たざる所以なり」と。後、果たして然り。
現代語訳
ある書物にこうある。「俸禄の薄い者とは、ともに乱に入ることはできない。賞の軽い者とは、ともに難に入ることはできない」。慎子はこう言った。「昔の王は、禄を受けない者を臣とせず、禄が厚くない者とはともに難に入らなかった」。〔非の側。〕田単が狄を攻めようとして、魯仲連に会った。仲連は言った。「将軍が狄を攻めても、落とせないでしょう。なぜなら、昔将軍が即墨にいたとき、座れば土もっこを編み、立てばスコップを杖にして兵卒の先頭に立った。これが燕を破った理由です。いま将軍は東に掖邑の俸禄があり、西に蕢上の楽しみがあり、黄金の帯を横たえて淄水と澠水のあいだを駆けている。生きる楽しみがあって、死ぬ気がない。勝てない理由です」。
解説

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