長短経 / 是非
墨子曰、“雖有賢君、不愛無功之臣、雖有慈父、不愛無益之子。”〔非曰〕曹子建曰、舍罪責功者、明君之主也、矜愚愛能者、慈父之恩也。”《三略》曰、“含氣之類、皆願得申其志是以明君賢臣、屈己申人。”〔是曰〕
新字:墨子曰、“雖有賢君、不愛無功之臣、雖有慈父、不愛無益之子。”〔非曰〕曹子建曰、舎罪責功者、明君之主也、矜愚愛能者、慈父之恩也。”《三略》曰、“含気之類、皆願得申其志是以明君賢臣、屈己申人。”〔是曰〕
書き下し
墨子曰く「賢君有りと雖も、功無きの臣を愛せず。慈父有りと雖も、益無きの子を愛せず」と。〔非に曰く〕曹子建曰く「罪を舎きて功を責むるは、明君の主なり。愚を矜れみ能を愛するは、慈父の恩なり」と。三略に曰く「気を含むの類は、皆な其の志を申ぶるを得んことを願う。是を以て明君賢臣は、己を屈して人を申ぶ」と。
現代語訳
墨子はこう言った。「賢明な君主であっても、功績のない臣を愛することはない。慈愛深い父であっても、役に立たない子を愛することはない」。〔非の側。〕曹植はこう言った。「罪を問わずに功を求めるのが、明君というものだ。愚かさを憐れみ、才能を愛するのが、慈父の恩である」。三略にこうある。「息をする生き物はみな、自分の志を伸ばしたいと願っている。だから明君と賢臣は、自分を屈めて人を伸ばす」。
解説
功績のない者を愛することはない、という墨子の冷たい断言に対し、曹植は罪を問わずに功を求めるのが明君だと返します。過去を清算するか、これからを引き出すか。三略の「己を屈して人を申ぶ」がその答えになっています。人はみな自分の志を伸ばしたい。その願いを使うには、こちらが一歩下がる必要がある。功績主義は分かりやすいぶん、伸びかけた芽を数えそこねます。
この章句が説くこと
是非墨子曹植三略功績赦す
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