長短経 / 反経
慎子曰、“忠未足以救亂代、而適足以重非。何以識其然耶?曰、父有良子而舜放瞽瞍桀有忠臣而過盈天下。然則孝子不生慈父之義〔六親不和、有孝慈。、〕而忠臣不生聖君之下〔國家昏亂、有忠臣。〕故明主之使其臣也、忠不得過職、而職不得過官。〔反忠也。京房論議、與石顯有隙、及京房被黜為魏郡太守、憂懼上書曰、“臣弟子姚平謂臣曰、『房可謂小忠、未可謂大忠、何者?昔秦時、趙髙用事、有正先者、非刺髙而死、髙威自此成、秦之亂、正先趣之。』今臣得出守郡、唯陛下毋使臣當正先之死、為姚平所笑。”由此而觀之、夫正先之所謂忠、乃促秦禍、忠何益哉?”〕
新字:慎子曰、“忠未足以救乱代、而適足以重非。何以識其然耶?曰、父有良子而舜放瞽瞍桀有忠臣而過盈天下。然則孝子不生慈父之義〔六親不和、有孝慈。、〕而忠臣不生聖君之下〔国家昏乱、有忠臣。〕故明主之使其臣也、忠不得過職、而職不得過官。〔反忠也。京房論議、与石顕有隙、及京房被黜為魏郡太守、憂懼上書曰、“臣弟子姚平謂臣曰、『房可謂小忠、未可謂大忠、何者?昔秦時、趙高用事、有正先者、非刺高而死、高威自此成、秦之乱、正先趣之。』今臣得出守郡、唯陛下毋使臣当正先之死、為姚平所笑。”由此而観之、夫正先之所謂忠、乃促秦禍、忠何益哉?”〕
書き下し
慎子曰く「忠は未だ以て乱代を救うに足らずして、適ま以て非を重ぬるに足る。何を以て其の然るを識るか。曰く、父に良子有りて舜は瞽瞍を放ち、桀に忠臣有りて過ちは天下に盈つ。然らば則ち孝子は慈父の義に生ぜず、〔六親和せずして孝慈有り。〕而して忠臣は聖君の下に生ぜず。〔国家昏乱して忠臣有り。〕故に明主の其の臣を使うや、忠は職を過ぐるを得ずして、職は官を過ぐるを得ず」と。〔忠に反するなり。京房、議論して石顕と隙有り。京房の黜けられて魏郡太守と為るに及び、憂懼して上書して曰く「臣の弟子姚平、臣に謂いて曰く『房は小忠と謂う可きも、未だ大忠と謂う可からず。何となれば、昔、秦の時、趙高事を用う。正先なる者有り、高を非刺して死す。高の威は此より成る。秦の乱は、正先之を趣す』と。今、臣、出でて郡を守るを得たり。唯だ陛下、臣をして正先の死に当たらしむる毋かれ。姚平の笑う所と為らん」と。此に由りて之を観れば、夫れ正先の所謂忠は、乃ち秦の禍を促す。忠、何の益あらんや」と。〕
現代語訳
慎子はこう言った。「忠は乱れた時代を救うには足りず、かえって誤りを重ねるに足りる。なぜそう分かるのか。父に良い子がいながら舜は瞽瞍を遠ざけ、桀に忠臣がいながら過ちが天下に満ちた。とすれば、孝子は慈しみ深い父のもとには生まれず、〔六親が和合しないときに孝と慈が現れる。〕忠臣は聖なる君主の下には生まれない。〔国家が乱れたときに忠臣が現れる。〕だから明君が臣下を使うときは、忠が職分を越えることを許さず、職分が官の範囲を越えることを許さない」。〔忠に反する場合である。京房は議論して石顕と対立した。京房が退けられて魏郡太守となったとき、憂え恐れて上書した。「私の弟子の姚平が私に言いました。『先生は小さな忠とは言えても、大きな忠とは言えません。なぜか。昔、秦の時代に趙高が権力を振るいました。正先という者がいて、趙高を非難して死にました。趙高の威はこれによって固まりました。秦の乱れは、正先が促したのです』。いま私は都を出て郡を守ることになりました。どうか陛下、私を正先のような死に当たらせないでください。姚平に笑われます」。ここから見れば、正先のいわゆる忠は、秦の禍を早めた。忠に何の益があろうか」。〕
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』魯問魯君の嬖人、死す。魯君、之が為に誄す。魯人、因りて説びて之を用う。子墨子、之を聞きて曰く、「誄なる者は、死人の志を道うなり。今、説びて之を用うるに因るは、是れ猶お來首を以て服に從うがごときなり」と。魯陽文君、子墨子に謂いて曰く、「我に忠臣を語る者有り。之に俯せしむれば則ち俯し、之に仰がしむれば則ち仰ぎ、處らしむれば則ち静かに、呼べば則ち應ず。忠臣と謂う可きか」と。子墨子曰く、「之に俯せしむれば則ち俯し、之に仰がしむれば則ち仰ぐは、是れ景に似たり。處らしむれば則ち静かに、呼べば則ち應ずるは、是れ響に似たり。君、将た何をか景と響とに得んや。翟の所謂る忠臣なる者を以てせば、上に過ち有れば則ち之を微にして以て諌め、己に善有れば則ち之を上に訪ねて、敢えて以て外に告ぐる無く、其の邪を匡して其の善に入り、尚びて下に比する無く、美善を上に在らしめて怨讐を下に在らしめ、安樂を上に在らしめて憂慼を臣に在らしむ。此れ翟の忠臣と謂う者なり」と。
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『武士道』第九章 忠節・支那は孝を本とし日本は忠を本とす此れと等しく、日本人の懐抱する如き忠節は、国を異にして之を頌するものの、ほとんど稀なるを見ん。然れども此れ、吾人の観念の非なるが故にあらずして、却つて彼れにありては既に之を忘却せるが故にして、又た日本人の忠節の念に深厚なるは、他国の未だ容易に企及する能はざるものあるが為なるなからんか。グリフィス氏が、支那に在りては孔教は孝を以て百行の基と為し、日本に在りては忠を以て本と為す、と説けるは真に然り。予は今ここに、読者の或は吃驚酸鼻すべきを顧みず、シェイクスピアの所謂『落魄の主君に仕へて艱苦をつぶさにし』、以て『稗史に名を得たる』忠臣の物語を叙せん。其物語は、我国史を飾れる清廉高義の人格、菅原道真を寓せるものなり。
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葉隠・聞書第一主君さえ大切に仕り候えば、親も悦び、仏神も納受(のうじゅ)あるべしと存じ候。此方(こなた)は主を思うより外のこと知らず、志(こころざし)つのり候えば、不断(ふだん)御身辺(ごしんぺん)に気を附け、片時も離れ申さず候。又、女は第一に夫を主君の如く存ずべき事である。
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葉隠・聞書第一忠臣は孝子の門に尋ねよとあり。随分(ずいぶん)心を尽くして孝行すべき事なり。奉公に精を出す人は自然にはあれども、孝行に精出す人は稀なり。よき者には他人も懇(ねんご)ろに、亡き後にて残り多く、孝行に精出す人は稀なり。無理なる人、無理なる親にてなくば知れまじきなり。
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『武士道』第九章 忠節・忠と孝の衝突平家物語の作者は、小松内府の父清盛の暴虐を憂ふるの条に至り、惻然として、『悲しきかな、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷盧八万の巓よりもなほ高き父の恩、たちまちに忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御為には既に不忠の逆臣ともなりぬべし、進退これ谷れり』と歎ぜり。哀れむべし重盛、彼れ後、霊性の誠を披いて死を天に祈り、純潔正義の宿するに難き此塵世を出離せんことを願ふを見るに非らずや。義理と人情との衝突によりて心破れたるもの、古来其人多し、あに独り重盛のみならんや。シェイクスピアも将た旧約全書も、孝を説いて未だ明かなるものあるを見ず。然るに一旦此の衝突の起るや、武士道は孝を捨てて寧ろ忠を取るに遅疑せず。しかのみならず、女子も亦た敢て其子を励まして君主の為に死せしむ。