長短経 / 臣行
或曰、“季布壯士、而反摧剛為柔、髠鉗逃匿、為是乎?”司馬遷曰、“以項羽之氣、而季布以勇顯於楚、身屢典軍、搴〔音綺連反〕旗者數矣、可謂壯士。然至被刑戮、為人奴而不死、何其下也!彼必自負其材、故受辱而不羞、欲有所用其未足也、故終為漢名將。賢者誠重其死。
新字:或曰、“季布壮士、而反摧剛為柔、髠鉗逃匿、為是乎?”司馬遷曰、“以項羽之気、而季布以勇顕於楚、身屢典軍、搴〔音綺連反〕旗者数矣、可謂壮士。然至被刑戮、為人奴而不死、何其下也!彼必自負其材、故受辱而不羞、欲有所用其未足也、故終為漢名将。賢者誠重其死。
書き下し
或るひと曰く「季布は壮士なり。而るに反って剛を摧きて柔と為り、髠鉗して逃匿す。是と為すか」と。司馬遷曰く「項羽の気を以てして、季布は勇を以て楚に顕る。身は屢しば軍を典り、旗を搴ぐ〔音、綺連の反。〕こと数しばなり。壮士と謂う可し。然れども刑戮を被り、人の奴と為りて死せざるに至る。何ぞ其れ下れるや。彼は必ず自ら其の材を負む。故に辱を受けて羞じず。其の未だ足らざるを用うる所有らんと欲するなり。故に終に漢の名将と為る。賢者は誠に其の死を重んず。
現代語訳
ある人が言った。「季布は壮士である。それなのに剛を折って柔となり、髪を剃られ首かせをはめられて隠れた。これでよいのか」。司馬遷は言った。「項羽の気迫のもとで、季布は勇によって楚に名を顕した。しばしば軍を率い、敵の旗を奪ったことが何度もあった。壮士と言ってよい。しかし刑戮を受け、人の奴隷となって死ななかったところまで至った。なんと落ちぶれたことか。彼はきっと自分の才を頼みとしていた。だから辱めを受けても恥じなかった。まだ使い尽くしていないものを使いたいと願ったからである。だからついに漢の名将となった。賢者はまことにその死を重んじる。
解説
季布は項羽の将で、劉邦に懸賞金をかけられ、頭を丸め首かせをして奴隷に身を落として生き延びました。司馬遷はいったん、なんと落ちぶれたことか、と言ってから、理由を示します。自分の才をまだ使い切っていないと思っていたから、辱めを恥じなかった。恥をかかずに死ぬより、恥をかいて使い切るほうを選んだ。賢者は其の死を重んず、という一句は、死を軽々しく選ばないという意味です。
この章句が説くこと
臣行季布司馬遷屈辱生き延びる才
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