長短経 / 君徳
梁元帝聰明才學、克平禍亂、而卒致傾覆。何也?〔元帝、梁武帝第七子、名繹、為荆州刺史。破侯景、都荆州、為西魏萬紐于謹來伐、執帝害之。〕虞南曰、「梁元聰明伎藝、才兼文武、仗順伐逆、克雪家寃成功遂事、有足稱者。但國難之後、傷夷未復、信强冦之甘言、襲褊心於懷楚蕃、屏宗支自為讐敵、孤逺懸僻、莫與同憂、身亡祚滅、生人塗炭、舉鄢、郢而棄之、良可惜也。」
新字:梁元帝聰明才学、克平禍乱、而卒致傾覆。何也?〔元帝、梁武帝第七子、名繹、為荆州刺史。破侯景、都荆州、為西魏万紐于謹来伐、執帝害之。〕虞南曰、「梁元聰明伎芸、才兼文武、仗順伐逆、克雪家冤成功遂事、有足称者。但国難之後、傷夷未復、信強寇之甘言、襲褊心於懐楚蕃、屏宗支自為讐敵、孤遠懸僻、莫与同憂、身亡祚滅、生人塗炭、舉鄢、郢而棄之、良可惜也。」
書き下し
梁の元帝は聡明才学、克く禍乱を平らぐ。而るに卒に傾覆を致す。何ぞや。〔元帝は梁の武帝の第七子、名は繹。荊州刺史と為る。侯景を破り、荊州に都す。西魏の万紐于謹の来たり伐つ所と為り、帝を執えて之を害す。〕虞南曰く「梁元は聡明伎芸、才は文武を兼ぬ。順に仗りて逆を伐ち、克く家の冤を雪ぐ。功を成し事を遂ぐること、称するに足る者有り。但だ国難の後、傷夷未だ復せず。強寇の甘言を信じ、褊心を懐楚の蕃に襲ぐ。宗支を屏けて自ら讐敵と為る。孤遠懸僻にして、与に憂いを同じくする莫し。身亡び祚滅び、生人塗炭す。鄢・郢を挙げて之を棄つ。良に惜しむ可きなり」と。
現代語訳
梁の元帝は聡明で学才があり、よく禍乱を平定した。それなのに最後には転覆を招いた。なぜか。〔元帝は梁の武帝の第七子、名は繹。荊州刺史となった。侯景を破り、荊州に都した。西魏の万紐于謹に討たれ、捕らえられて殺された。〕虞世南は言った。「梁の元帝は聡明で技芸があり、才は文武を兼ねていた。順を頼んで逆を討ち、よく一族の恨みをすすいだ。功を成し事を遂げたことは、称えるに足りるものがある。ただ国難の後、傷はまだ癒えていなかった。強敵の甘い言葉を信じ、狭い心を辺境の藩屏に向けた。一族を排除して自ら仇敵とした。孤立し遠く離れて、憂いをともにする者がいなかった。身は滅び位は絶え、民は塗炭の苦しみに落ちた。鄢と郢を挙げてこれを棄てた。まことに惜しむべきである」。
解説

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