長短経 / 君徳
宋孝武、明帝、二人孰賢?虞南曰、「二帝殘忍之性、異體同心。誅戮賢良、割剪枝葉、内無平、勃之相、外闕晉、鄭之親、以斯大寳、委之昏稚、故使齊民乘舋宰制天下、未踰歲稔、遂移龜玉。緘縢雖固、適為大盜之資。百慮同失、可為長歎鼎社傾淪、非不幸也。」〔孝武名駿、文帝第三子、為江州刺史。弟劭既弑逆帝、與顔竣于江州起義征劭平之。明帝名彧、文帝第十八子、即位、盡殺孝武諸子、務為彫飾、天下騷然、崩、子昱立、無道、蕭道成殺之。〕
新字:宋孝武、明帝、二人孰賢?虞南曰、「二帝残忍之性、異体同心。誅戮賢良、割剪枝葉、内無平、勃之相、外闕晋、鄭之親、以斯大宝、委之昏稚、故使斉民乗舋宰制天下、未踰歳稔、遂移亀玉。緘縢雖固、適為大盗之資。百慮同失、可為長嘆鼎社傾淪、非不幸也。」〔孝武名駿、文帝第三子、為江州刺史。弟劭既弑逆帝、与顔竣于江州起義征劭平之。明帝名彧、文帝第十八子、即位、尽殺孝武諸子、務為彫飾、天下騷然、崩、子昱立、無道、蕭道成殺之。〕
書き下し
宋の孝武・明帝、二人孰れか賢なるか。虞南曰く「二帝は残忍の性、体を異にして心を同じくす。賢良を誅戮し、枝葉を割剪す。内に平・勃の相無く、外に晋・鄭の親を闕く。斯の大宝を以て、之を昏稚に委ぬ。故に斉民をして釁に乗じて天下を宰制せしむ。未だ歳稔を踰えずして、遂に亀玉を移す。緘縢は固しと雖も、適ま大盗の資と為る。百慮同じく失す、長歎を為す可し。鼎社の傾淪は、不幸に非ざるなり」と。〔孝武、名は駿、文帝の第三子、江州刺史と為る。弟の劭、既に帝を弑逆す。顔竣と江州に於て義を起こし劭を征して之を平らぐ。明帝、名は彧、文帝の第十八子。即位して、尽く孝武の諸子を殺し、務めて彫飾を為す。天下騒然たり。崩じて、子の昱立つ。無道にして、蕭道成之を殺す。〕
現代語訳
宋の孝武帝と明帝、二人のどちらが賢明か。虞世南は言った。「二人の帝は残忍な性質で、体は違うが心は同じである。賢良な者を殺し、一族の枝葉を切り落とした。内には陳平・周勃のような宰相がなく、外には晋・鄭のような親藩を欠いていた。この大いなる宝を、幼く暗い者に委ねた。だから庶民の斉の蕭道成に隙を突かせて天下を支配させることになった。一年の実りも越えないうちに、ついに国の宝は移った。縄でしっかり縛っても、それはかえって大泥棒にとって好都合なだけである。あらゆる思慮がことごとく外れた。長嘆息すべきである。国家の傾き沈むのは、不幸ではない」。〔孝武帝、名は駿、文帝の第三子、江州刺史となった。弟の劉劭が帝を弑逆した。顔竣とともに江州で義兵を挙げ、劉劭を討ってこれを平定した。明帝、名は彧、文帝の第十八子。即位して孝武帝の子をすべて殺し、もっぱら飾り立てに努めた。天下は騒然とした。崩じて子の昱が立った。無道であったので、蕭道成がこれを殺した。〕
解説

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