長短経 / 君徳
〔干寳《晉總論》曰、「昔宣帝以雄才碩量、應運而仕。值魏太祖創業之初、籌晝軍國、嘉謀屢中、遂服輿軫、駈馳三世。性深阻、有城府、而能寛綽以容納、行任數以御物、而知人、善採㧞。故能西擒孟達、東舉公孫淵、内夷曹爽、外襲王陵、屢距諸葛亮節制之兵、而東支吳人輔車之勢。于是百姓與能、大象始搆矣。
新字:〔干宝《晋総論》曰、「昔宣帝以雄才碩量、応運而仕。値魏太祖創業之初、籌昼軍国、嘉謀屢中、遂服輿軫、駈馳三世。性深阻、有城府、而能寛綽以容納、行任数以御物、而知人、善採抜。故能西擒孟達、東舉公孫淵、内夷曹爽、外襲王陵、屢距諸葛亮節制之兵、而東支呉人輔車之勢。于是百姓与能、大象始搆矣。
書き下し
〔干宝の晋総論に曰く「昔、宣帝は雄才碩量を以て、運に応じて仕う。魏の太祖創業の初めに値い、軍国を籌画し、嘉謀屢しば中たる。遂に輿軫に服し、三世に駆馳す。性は深阻にして城府有り、而も能く寛綽にして以て容納す。数を任ずるを行いて以て物を御し、而も人を知り善く採抜す。故に能く西は孟達を擒にし、東は公孫淵を挙げ、内は曹爽を夷らげ、外は王陵を襲う。屢しば諸葛亮の節制の兵を距ぎ、而して東は呉人の輔車の勢いを支う。是に於て百姓は能に与し、大象始めて構われたり。
現代語訳
〔干宝の晋総論にこうある。「昔、宣帝(司馬懿)は雄大な才と大きな度量をもって、時運に応じて仕えた。魏の太祖が創業した初めにあたり、軍事と国政をはかり、よい策がたびたび的中した。ついに車に乗る身となり、三代にわたって走り回った。性質は深く閉ざされて城郭のような構えがありながら、寛やかにゆったりと人を受け入れることができた。計算を用いて物事を御しながら、人を知って上手に抜擢した。だから西では孟達を捕らえ、東では公孫淵を挙げ、内では曹爽を平らげ、外では王陵を襲った。たびたび諸葛亮の統制ある軍を防ぎ、東では呉の唇歯の勢いを支えた。こうして民は有能さに味方し、大いなる形が組み上がりはじめた。
解説
性は深阻にして城府あり、しかも寛綽にして容納す。この一句が司馬懿という人物の核心を突いています。内側は深く閉ざして誰にも見せないのに、外側は広く人を受け入れる。普通は逆で、開いている人は受け入れ、閉じている人は拒む。この二つを同時に持っていたことが、彼を三代にわたって生き延びさせました。腹の内を見せないことと、人を遠ざけることは別物です。
この章句が説くこと
君徳司馬懿干宝深阻城府寛綽容納人材
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