長短経 / 君徳
〔《漢文贊》曰、「文帝即位、二十三年、宫室園囿、車騎服御、無所增益。有不便、輙施以利人。南越尉佗、自立為帝、召貴佗兄弟、以徳懷之、佗遂稱臣。與匈奴結親、而背約入盜、令邊備守、不發兵深入、惡煩百姓。吳王詐病不朝、賜以几杖、羣臣諫說雖切、常假借納用焉。張武等受賂金錢、覺加賞賜、以愧其心。專務以徳化人、是以海内殷富、興於禮義、斷獄數百、幾致刑措。嗚呼!仁哉!」
新字:〔《漢文賛》曰、「文帝即位、二十三年、宮室園囿、車騎服御、無所增益。有不便、輙施以利人。南越尉佗、自立為帝、召貴佗兄弟、以徳懐之、佗遂称臣。与匈奴結親、而背約入盗、令辺備守、不発兵深入、悪煩百姓。呉王詐病不朝、賜以几杖、羣臣諫説雖切、常仮借納用焉。張武等受賂金銭、覚加賞賜、以愧其心。専務以徳化人、是以海内殷富、興於礼義、断獄数百、幾致刑措。嗚呼!仁哉!」
書き下し
〔漢文の賛に曰く「文帝即位して二十三年、宮室園囿、車騎服御、増益する所無し。不便有れば輒ち施して以て人を利す。南越の尉佗、自立して帝と為る。佗の兄弟を召し貴くし、徳を以て之を懐かしむ。佗遂に臣と称す。匈奴と親を結ぶも、約に背きて入り盗む。辺をして備え守らしめ、兵を発して深く入らず、百姓を煩わすを悪む。呉王、病と詐りて朝せず、賜うに几杖を以てす。群臣の諫説は切なりと雖も、常に仮借して納用す。張武ら賂の金銭を受く。覚りて賞賜を加え、以て其の心を愧じしむ。専ら務めて徳を以て人を化す。是を以て海内殷富、礼義に興り、獄を断ずること数百、幾んど刑を措くに致る。嗚呼、仁なるかな」と。
現代語訳
〔漢書の文帝の賛にこうある。「文帝は即位して二十三年、宮殿も庭園も、車馬も衣服も調度も、増やしたものがなかった。不便があればすぐに施して人々の利とした。南越の尉佗が自立して帝を名乗った。文帝は尉佗の兄弟を召して貴い位につけ、徳によってなつかせた。尉佗はついに臣下と称した。匈奴と親交を結んだが、匈奴は約束に背いて侵入し略奪した。文帝は辺境に守りを固めさせ、兵を出して深く攻め入らず、民を煩わせることを嫌った。呉王が病と偽って参内しなかったときは、脇息と杖を賜った。臣下の諫めが厳しくても、常に受け流して採用した。張武らが賄賂の金銭を受け取った。それに気づくと、かえって賞賜を加えて、その心を恥じ入らせた。もっぱら徳によって人を教化することに努めた。だから天下は豊かになり、礼義が興り、裁判は年に数百件となり、ほとんど刑罰を置いたまま使わないところまで至った。ああ、仁であることよ」。
解説
この章句が説くこと
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『秘本玉くしげ』下 使う者を罰すこれを止る法は、まづ賄を取者を禁むるのみならず、これをつかふ者をきびしくいましめて、何事によらずいささかにても賄をつかふ者相しるるに於ては、急度曲事に申付べしとの旨をつねづねふれおかれて、もし犯す者あらんには、一人二人きびしく答められなどせば、つかふ者は勿論にて、とる人もおのづからきみわろかるべし。上の制禁ならんには、これをつかはぬを怒ることも得せじ。そもそも賄は、つかふ者にはとがなくして、罪は取者にある事なれ共、取者をのみ制しては止がたければ、つかふ者をいましむるも一つの権道なるべきにや。
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『甲陽軍鑑』品第四十一国の仕置武士までの事にいろはせ給へば、其家老必らず賄賂にふけり、礼物をもつて諸役者に諸奉公人共なるにより、彼役者どもの存分我立身したることわざをば、死するまでもよきことと存ずるに付、いはんや存生さかんの時、我に音信つかふ人をば善悪の弁もなく、これはよき人と存じ、御大将へ出頭よく取成て、礼物つかふ人ばかり立身して本のよき者はおし付られ、心いさむ事なく、さながら其大将へ無沙汰申し、ゆく〳〵用にも立まじきと思ふなり、
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『秘本玉くしげ』下 賄賂の損得すべて世中に此筋盛んなるゆゑに、おのづから国政正しくは行はれがたく、又上に損失ある事おびただしく、下にも損害甚多し。たとへば、金千両入べきところをも、役人へ三百両賄すれば五百両にてすむゆゑに、下にも二百両の得あれども、上には五百両だけの所の損あり。或は五百両にてすむべき事も、賄をせざれば七百両も八百両も入りて、其二百両三百両は脇道へぬけ行やうの事も有て、上にも利なく、下には大損ありて、あまつさへ上を恨み奉ること甚し。されば、国政の大害、下民の大害、此賄に過たるはなし。
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『不動智神妙録』諫言 其四 身を正す取ると捨つるとは義を以てすると云へり、唯今寵臣たるにより、諸大名より賄を厚くし、欲に義を忘れ候事、努々不可有候、貴殿乱舞を好み、自身の能に奢り、諸大名衆へ押て参られ、能を勧められ候事、偏に病と存じ候なり、上の唱は猿楽の様に申し候由、また挨拶のよき大名衆をば、御前に於てもつよく御取成しなさるゝ由、重ねて能く能く御思案可然歟、歌に「心こそ心迷はす心なれ心に心心ゆるすな」
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尚書・呂刑獄貨は寶に非ず。
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史記 伍子胥列伝其の後四年、呉王将に北のかた斉を伐たんとす。越王句踐、子貢の謀を用ゐ、乃ち其の衆を率ゐて以て呉を助け、而して重宝を以て太宰嚭に献遺す。太宰嚭既に数々越の賂を受け、其の越を愛信すること殊に甚だしく、日夜呉王の為に言ふ。呉王、嚭の計を信用す。伍子胥諫めて曰く、「夫れ越は腹心の病なり、今其の浮辞詐偽を信じて斉を貪る。斉を破るは、譬へば猶ほ石田のごとし、用ゐる所無し。且つ盤庚の誥に曰く、『顛越不恭有らば、之を劓殄滅し、遺育無からしめ、種を茲の邑に易ふること無からしめよ』と。此れ商の興りし所以なり。願はくは王斉を釈てて越を先にせよ。若し然らずんば、後将に之を悔ゆるも及ぶ無からん」と。而るに呉王聴かず、子胥を斉に使はす。子胥行くに臨み、其の子に謂ひて曰く、「吾数々王を諫むれど、王用ゐず、吾今呉の亡ぶるを見る。汝、呉と倶に亡ぶるは、益無きなり」と。乃ち其の子を斉の鮑牧に属し、還りて呉に報ず。