長短経 / 君徳
夏尚忠、忠之弊野朴故殷承之以敬。敬之弊鬼、故周承之以文。文之弊薄、救薄莫若忠。三王之道、周而復始。周秦之間、可謂文弊秦不改、反酷刑。漢承其弊得天統矣。孔融曰、「周武從后稷以來至其身、相承積十五世、但有魚鳥之瑞。至如髙祖、一身修徳、瑞有四五、白虵分、神母哭、西入闗、五星聚。又武王伐紂、斬而梟之。髙祖入秦、赦子嬰而遣之。是其寛裕、又不如髙祖。」虞南曰、「帝者與師處、王者與友處、霸者與臣處。漢祖之臣、三傑是也、光武之佐、二十八將是也。豈得以鄧禹、吳漢匹于張良、韓信者乎?然漢祖功臣、皆强盛誅滅、光武佐命、悉用優秩安全、君臣之際、良可稱也。絶長補短、抑其次焉。」由此言之、夫漢髙克平秦、項、開創漢業、衣冠禮樂、垂之後代、雖未階王道、霸徳之盛也。〕
新字:夏尚忠、忠之弊野朴故殷承之以敬。敬之弊鬼、故周承之以文。文之弊薄、救薄莫若忠。三王之道、周而復始。周秦之間、可謂文弊秦不改、反酷刑。漢承其弊得天統矣。孔融曰、「周武従后稷以来至其身、相承積十五世、但有魚鳥之瑞。至如高祖、一身修徳、瑞有四五、白虵分、神母哭、西入関、五星聚。又武王伐紂、斬而梟之。高祖入秦、赦子嬰而遣之。是其寛裕、又不如高祖。」虞南曰、「帝者与師処、王者与友処、覇者与臣処。漢祖之臣、三傑是也、光武之佐、二十八将是也。豈得以鄧禹、呉漢匹于張良、韓信者乎?然漢祖功臣、皆強盛誅滅、光武佐命、悉用優秩安全、君臣之際、良可称也。絶長補短、抑其次焉。」由此言之、夫漢高克平秦、項、開創漢業、衣冠礼楽、垂之後代、雖未階王道、覇徳之盛也。〕
書き下し
夏は忠を尚ぶ。忠の弊は野朴なり。故に殷は之を承くるに敬を以てす。敬の弊は鬼なり。故に周は之を承くるに文を以てす。文の弊は薄なり。薄を救うは忠に若くは莫し。三王の道は、周りて復た始まる。周秦の間は、文弊と謂う可し。秦は改めずして、反って刑を酷にす。漢は其の弊を承けて天統を得たり。孔融曰く「周の武は后稷より以来、其の身に至るまで、相い承くること十五世を積む。但だ魚鳥の瑞有るのみ。高祖の如きに至りては、一身徳を修めて、瑞に四五有り。白蛇分かれ、神母哭き、西のかた関に入り、五星聚まる。又た武王は紂を伐ちて、斬りて之を梟す。高祖は秦に入りて、子嬰を赦して之を遣る。是れ其の寛裕、又た高祖に如かず」と。虞南曰く「帝者は師と処り、王者は友と処り、覇者は臣と処る。漢祖の臣は三傑是なり。光武の佐は二十八将是なり。豈に鄧禹・呉漢を以て張良・韓信に匹す可けんや。然れども漢祖の功臣は、皆な強盛にして誅滅せらる。光武の佐命は、悉く優秩を用いて安全なり。君臣の際、良に称す可きなり。長を絶ちて短を補えば、其の次に抑うるなり」と。此に由りて之を言えば、夫れ漢高は秦・項を克平し、漢業を開創す。衣冠礼楽、之を後代に垂る。未だ王道に階らずと雖も、霸徳の盛んなるなり。〕
現代語訳
夏は忠を尊んだ。忠の弊害は粗野で素朴なことである。だから殷はこれを敬で受け継いだ。敬の弊害は鬼神への傾斜である。だから周はこれを文で受け継いだ。文の弊害は薄さである。薄さを救うには忠に及ぶものはない。三王の道は、めぐってまた始まる。周と秦の間は、文の弊害と言ってよい。秦は改めず、かえって刑を酷くした。漢はその弊害を受け継いで天の統を得た。孔融はこう言った。「周の武王は后稷以来、自分の代まで十五世を重ねて受け継いだ。それでも魚と鳥のめでたいしるしがあっただけだ。高祖に至っては、一身で徳を修めて、しるしが四つも五つもあった。白蛇が斬られ、神の母が泣き、西へ関に入り、五星が集まった。また武王は紂を討って、斬って首をさらした。高祖は秦に入って、子嬰を赦して逃がした。この寛やかさでも、武王は高祖に及ばない」。虞世南はこう言った。「帝者は師とともに居り、王者は友とともに居り、覇者は臣とともに居る。漢の高祖の臣は三傑である。光武の補佐は二十八将である。どうして鄧禹や呉漢を張良や韓信に並べられよう。しかし高祖の功臣はみな強大になって誅滅された。光武の補佐はみな厚い俸禄を与えられて安全だった。君臣の関係は、まことに称えるに足りる。長所を削って短所を補えば、次の位に置くべきである」。ここから言えば、漢の高祖は秦と項羽を平定し、漢の事業を創始した。衣冠と礼楽を後代に伝えた。まだ王道には届かないが、覇者の徳としては盛んである。〕
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』君徳或るひと曰く「王霸の道は、既に命を聞けり。敢えて問う、高・光の二帝は、皆な壠畝より抜起し、禍難を芟夷して、遂に王業を開く。高祖は豁達にして以て大度あり、光武は謹細にして条目に于てす。各々其の美を擅にし、龍飛鳳翔す。故に能く乱を掇めて人を庇い、斯の塗炭を拯う。然れども大徳に比し、天威に方ぶるに、孰れをか優劣と為さんや」と。
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『長短経』君徳〔武帝の賛に曰く「漢は百王の弊を承く。高祖は乱を撥して正に反し、文景は務め人を養うに在り。古を稽え礼文するの事に至りては、猶お闕くること多し。孝武初めて立ち、卓然として百家を罷黜し、六経を表章す。遂に海内に疇咨し、其の俊茂を挙げて、之と功を立つ。太学を興し、郊祀を修め、正朔を改め、暦数を定め、音律を協え、詩楽を作り、封禅を建て、百神を礼し、周の後を紹ぐ。号令文章、煥焉として述ぶ可し。後嗣は洪業を遵うを得て、三代の風有り。武帝の雄材大略の如きにして、文景の恭倹を改めず、以て斯の人を斉えば、詩・書の称する所と雖も、何ぞ加うる有らんや」と。此を推して之を言えば、彼の漢武・秦皇は、皆な功を立つるの君にして、成を守るの主に非ざるなり。〕
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『長短経』君徳曹植曰く「昔、漢の初め興るや、高祖は暴秦に因りて起こり、遂に強楚を誅し、光く天下を有つ。功は湯武に斉しく、業は後嗣に流る。帝王の元勲、人君の盛事なり。然り而して名は純徳ならず、行は純道ならず。身没するの後、崩亡の際、果たして凶婦をして酷虐の心を肆にせしめ、嬖妾は人彘の刑を被る。趙王は幽囚せられ、禍は骨肉に殃す。諸呂は権を専らにし、社稷幾んど移る。凡そ此の上の事は、豈に高祖の寡計浅慮にして以て斯に致すに非ずや。然れども其の梟将画臣は、皆な古今の鮮なき所、歴代の希に覯る有る所なり。惟だ能く其の才に任じて之を用い、其の言を聴きて之を察す。故に天下を兼ねて帝位を有つなり。
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『長短経』君徳或るひと曰く「班固称す、周は成康と云い、漢は文景と言うと。斯の言当たれるか」と。虞南曰く「成康は文武の遺跡を承け、周・召を以て相と為し、篤厚の氓を化し、積仁の徳に因る。疾風の草を偃すも、未だ喩えと為すに足らず。漢祖の基を開くが如きに至りては、日も給かならず、嬴を亡ぼすの弊、猶お存する者有り。太宗は茲の仁恕を体し、式ちて玄黙に遵い、秦・項の酷烈を滌ぎ、軒・昊の淳風に反す。幾んど刑を厝くに致る。斯れ難しと為すなり。若し新垣の説に溺れず、鄧通の夢を取る無くんば、懍懍乎たり、庶幾くは王道に近からん。景帝の周の康に擬するは、則ち尚お慙徳有り」と。
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『長短経』君徳或るひと曰く「漢の武帝は雄才大略なり。前代の何の主にか方ぶ可き」と。虞南曰く「漢武は六世の業を承け、海内殷富なり。又た高人の資有り。故に能く英雄を総攬し、豪傑を駕御し、内は礼楽を興し、外は辺境を開く。制度憲章、煥然として述ぶ可し。始皇に方ぶれば、則ち優れりと為す。驕奢暴虐に至りては、以て相い亜ぐ可し。並びに功余り有りて徳足らず」と。
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『長短経』君徳〔魏の高貴郷公、荀顗に問いて曰く「有夏既に衰え、后相殄滅す。少康、夏の衆を収輯し、禹の績を復す。高祖は壟畝より抜起し、秦・項を芟夷す。其の功徳を考うるに、誰をか先後と為さん」と。顗対えて曰く「造ると因るとは、難易同じからず。少康の功徳は美なりと雖も、猶お中興と為す。漢の世祖と流を同じくして可なり。高祖の如きに至りては、臣ら以て優と為す」と。上曰く「少康は滅亡の後に先んじ、降りて諸侯の隷と為る。能く其の徳を布きて兆すに其の謀有り。卒に過・戈を滅ぼし、禹の績を復し、夏を祀りて天に配し、旧物を失わず。至徳弘仁に非ずんば、豈に能く斯の勲を済さんや。漢祖は土崩の勢いに因り、一時の権を収む。人の子と為りては則ち数しば其の親を危うくし、人の君と為りては則ち賢相に因り、人の父と為りては則ち其の子を衛る能わず。身没するの後、社稷幾んど傾く。若し少康と時を易えて処らば、或いは未だ大禹の績を復する能わざらん」と。此を推して之を言えば、宜しく夏康を高しとして漢祖を下すべし。〕