長短経 / 君徳
夫三皇無言、化流四海、故天下無所歸功。〔伏羲、女媧、神農、稱三皇也。〕帝者體天則地、有言有令、而天下太平。君臣讓功、四海化行、百姓不知其所以然。故使臣不用禮賞功、美而無害。
新字:夫三皇無言、化流四海、故天下無所帰功。〔伏羲、女媧、神農、称三皇也。〕帝者体天則地、有言有令、而天下太平。君臣譲功、四海化行、百姓不知其所以然。故使臣不用礼賞功、美而無害。
書き下し
夫れ三皇は言無くして、化は四海に流る。故に天下、功を帰する所無し。〔伏羲・女媧・神農を三皇と称するなり。〕帝なる者は天を体し地に則り、言有り令有りて、天下太平なり。君臣、功を譲り、四海に化行わる。百姓は其の然る所以を知らず。故に臣をして礼賞の功を用いざらしむ。美にして害無し。
現代語訳
三皇は言葉を発しないのに、その感化は四海に流れた。だから天下に功績を帰する先がなかった。〔伏羲・女媧・神農を三皇という。〕帝は天にのっとり地にならい、言葉があり命令があって、天下は太平だった。君と臣が互いに功を譲り合い、感化は四海に行きわたった。民はなぜそうなったのかを知らなかった。だから臣下に礼や賞による功績を用いさせなかった。美しくて害がない。
解説
君徳篇の書き出しです。三皇・帝・王・覇という四段階の統治のあり方が、これから順に語られていきます。最上位の三皇は言葉を発しないのに感化が行きわたり、誰の功績とも言えなかった。功績が特定できないことが、最も高い統治の徴とされています。組織がうまく回っているとき、誰のおかげかが分からない。逆に誰かの手柄が際立つときは、その人が要る状態、つまりまだ仕組みが未熟だということです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
君徳三皇無言の化功績統治段階
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