長短経 / 論士
《論》曰、“行遠道者、假於車馬、濟江海者、因於舟楫。故賢士之立功成名、因於資而假物者。”何以明之?公輸子能因人主之材木、以構宫室臺榭、而不能自為專屋狹廬、材不足也、歐冶能因國君之銅鐵、以為金爐大鐘而不能自為壺鼎盤盂、無其用也、君子能因人主之政朝、以和百姓、潤衆庶、而不能自饒其家、勢不便也。故舜耕於歴山、恩不及州里太公屠牛於朝歌、利不及於妻子。及其用也、恩流八荒、徳溢四海。故舜假之堯、太公因之周文、君子能修身以假道、不能枉道而假財。
新字:《論》曰、“行遠道者、仮於車馬、済江海者、因於舟楫。故賢士之立功成名、因於資而仮物者。”何以明之?公輸子能因人主之材木、以構宮室台榭、而不能自為専屋狭廬、材不足也、欧冶能因国君之銅鉄、以為金炉大鐘而不能自為壺鼎盤盂、無其用也、君子能因人主之政朝、以和百姓、潤衆庶、而不能自饒其家、勢不便也。故舜耕於歴山、恩不及州里太公屠牛於朝歌、利不及於妻子。及其用也、恩流八荒、徳溢四海。故舜仮之堯、太公因之周文、君子能修身以仮道、不能枉道而仮財。
書き下し
論に曰く「遠道を行く者は車馬に仮り、江海を済る者は舟楫に因る。故に賢士の功を立て名を成すは、資に因りて物を仮る者なり」と。何を以て之を明らかにせん。公輸子は能く人主の材木に因りて、以て宮室臺榭を構う。而して自ら専屋狭廬を為る能わざるは、材足らざればなり。欧冶は能く国君の銅鉄に因りて、以て金炉大鐘を為る。而して自ら壺鼎盤盂を為る能わざるは、其の用無ければなり。君子は能く人主の政朝に因りて、以て百姓を和し衆庶を潤す。而して自ら其の家を饒かにする能わざるは、勢い便ならざればなり。故に舜は歴山に耕し、恩は州里に及ばず。太公は朝歌に牛を屠り、利は妻子に及ばず。其の用いらるるに及びてや、恩は八荒に流れ、徳は四海に溢る。故に舜は之を堯に仮り、太公は之を周文に因る。君子は能く身を修めて以て道を仮る、道を枉げて財を仮る能わず。
現代語訳
ある議論にこうある。「遠い道を行く者は車と馬を借り、大河や海を渡る者は舟と櫂による。だから賢士が功を立て名を成すのは、元手によって物を借りるからである」。なぜそう言えるのか。公輸子(魯班)は君主の材木を使って宮殿や高殿を建てられるが、自分のための小さな家一軒を建てられない。材料がないからである。欧冶子は国君の銅と鉄を使って金の炉や大鐘を作れるが、自分のための壺や鼎や盤を作れない。その材料がないからである。君子は君主の朝廷を使って民を和ませ人々を潤せるが、自分の家を豊かにできない。立場がそれを許さないからである。だから舜は歴山で耕していたとき、恩は隣近所にも及ばなかった。太公望は朝歌で牛を屠っていたとき、利益は妻子にも及ばなかった。用いられるに至って、恩は八方の果てまで流れ、徳は四海に溢れた。だから舜は堯からそれを借り、太公望は周の文王によった。君子は身を修めることで道を借りることはできるが、道を曲げて財を借りることはできない。
解説

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