長短経 / 察相
齊崔杼帥師伐我、公患之。孟公綽曰、「崔子將有大志、不在病我、必速歸、何患焉?其來也不冦、使人不嚴、異於他日。」齊師徒歸、果弑莊公。晉、楚㑹諸侯而盟。楚公子圍設服離衛。魯大夫叔孫穆子曰、「楚公子美矣、君哉!」杜預曰設君服也此年子圍簒位。衛孫文子來聘、君登亦登。叔孫穆子趨進曰、「諸侯之㑹、寡君未嘗後衛君、今吾子不後寡君、未知所過。吾子其少安。」孫子無辭、亦無悛容。穆叔曰、「孫子必亡。為臣而君、過而不悛、亡之本也。」後十四年、林父逐君。
新字:斉崔杼帥師伐我、公患之。孟公綽曰、「崔子将有大志、不在病我、必速帰、何患焉?其来也不寇、使人不厳、異於他日。」斉師徒帰、果弑荘公。晋、楚会諸侯而盟。楚公子囲設服離衛。魯大夫叔孫穆子曰、「楚公子美矣、君哉!」杜預曰設君服也此年子囲簒位。衛孫文子来聘、君登亦登。叔孫穆子趨進曰、「諸侯之会、寡君未嘗後衛君、今吾子不後寡君、未知所過。吾子其少安。」孫子無辞、亦無悛容。穆叔曰、「孫子必亡。為臣而君、過而不悛、亡之本也。」後十四年、林父逐君。
書き下し
斉の崔杼、師を帥いて我を伐つ。公之を患う。孟公綽曰く「崔子将に大志有らんとす。我を病ましむるに在らず。必ず速やかに帰らん。何をか患えんや。其の来るや冦せず、人を使うこと厳ならず、他日に異なる」と。斉の師、徒らに帰る。果たして荘公を弑す。晋・楚、諸侯を会して盟う。楚の公子囲、服を設けて衛を離る。魯の大夫叔孫穆子曰く「楚の公子は美なり、君なる哉」と。杜預曰く、君の服を設けたるなりと。此の年、子囲は位を簒う。衛の孫文子来聘す。君登れば亦た登る。叔孫穆子趨り進みて曰く「諸侯の会、寡君は未だ嘗て衛君に後れず。今、吾子は寡君に後れず。未だ過つ所を知らず。吾子其れ少しく安んぜよ」と。孫子は辞する無く、亦た悛むる容無し。穆叔曰く「孫子は必ず亡びん。臣と為りて君たり、過ちて悛めざるは、亡びの本なり」と。後十四年、林父は君を逐う。
現代語訳
斉の崔杼が軍を率いて我が国を攻めた。公はこれを心配した。孟公綽は言った。「崔子には大きな志があります。我が国を苦しめるのが目的ではありません。必ずすぐに引き上げるでしょう。何を心配なさいますか。攻めて来ても略奪せず、兵の使い方が厳しくない。いつもと違います」。斉の軍は手ぶらで帰った。果たして崔杼は荘公を弑逆した。晋と楚が諸侯を集めて盟約した。楚の公子囲は君主の服装を整え、衛の列から離れた。魯の大夫叔孫穆子は言った。「楚の公子は立派だ。まるで君主だ」。杜預は「君主の服装を整えたのだ」と言う。この年、公子囲は位を簒奪した。衛の孫文子が来聘した。君が階段を登れば自分も登った。叔孫穆子は走り出て言った。「諸侯の会合で、我が君はこれまで衛君の後ろに下がったことがありません。今あなたは我が君に後れを取らない。何を誤ったのか分かりません。どうか少しお控えください」。孫子は弁解もせず、改める様子もなかった。穆叔は言った。「孫子は必ず滅びる。臣下でありながら君主として振る舞い、過ちを改めない。これは滅びの元だ」。十四年後、孫林父は君を追放した。
解説

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『長短経』察相魯公、楚宮を作る。穆叔曰く「泰誓に云う『人の欲する所は、天必ず之に従う』と。君は楚を欲するなり。故に其の宮を作る。復た楚に適かずんば、必ず是の宮に死せん」と。六月辛巳、公、楚宮に薨ず。晋侯、卻犨をして孫林父を衛に送らしむ。衛侯、之を饗す。苦成叔、敖る。衛の大夫□曰く「苦成の家は其れ亡びんか。古の饗食は、以て威儀を観、禍福を省みる。故に詩に云う『兕觥其れ觩たり、旨酒思れ柔なり。彼れ交わりて敖らず、万福来たり求む』と。今、夫子は敖る。禍を取るの道なり」と。十七年、卻氏亡ぶ。斉侯と衛侯、商任に会す、敬せず。叔向曰く「二君は必ず免れじ。会朝は礼の経なり。礼は政の輿なり。政は身の守りなり。礼を怠れば政を失い、立たず、是を以て乱るるなり」と。二十五年、斉は光を弑す。二十六年、衛は剽を弑す。〕
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『長短経』察相邾の隠公来朝す。玉を執ること高く、其の容は仰ぐ。魯公、玉を受くること卑しく、其の容は俯す。子貢曰く「礼を以て之を観れば、二君は皆な死亡有らん。高く仰ぐは驕なり、卑しく俯すは替なり。驕は乱に近く、替は疾に近し。君は主たり、其れ先ず亡びんか」と。此の年、公薨ず。哀公七年、邾子益を以て帰る。衛侯、呉に鄖に会す。呉人、衛侯の舎を藩す。子貢、太宰嚭に説きて之を免る。衛侯帰りて、夷言を効う。子の之、尚お幼くして曰く「君は必ず免れじ。其れ夷に死せんか。執えられて又た其の言を説ぶ、之に従うこと固し」と。後に卒に楚に死す。
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『長短経』察相又た曰く「晋の韓宣子、斉に如き、子雅に見ゆ。子雅、其の子子旗を召して、宣子に見えしむ。宣子曰く『家を保つの主に非ざるなり、臣たらず』」と。杜預曰く「子雅の志器の亢ぶるを言うなり」と。後十年、来奔す。周の霊王の弟儋季卒す。其の子括、将に王に見えんとして歎ず。単公子愆期、其の歎を聞くや、入りて以て王に告げて曰く「戚しまずして大を願い、視は躁がしくして足は高し。心は他に在り。殺さずんば必ず害を為さん」と。王曰く「童子何をか知らん」と。霊王崩ずるに及び、儋括は王子佞夫を立てんと欲す。周の大夫、佞夫を殺す」と。
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『春秋左氏伝』襄公七年 臣と為りて君たり衛の孫文子來聘す。且つ武子の言を拜して、孫桓子の盟を尋(あたた)む。公登れば亦た登る。叔孫穆子相たり。趨り進みて曰く、「諸侯の會に、寡君未だ嘗て衛君に後れず。今、吾子寡君に後れず。寡君未だ過つ所を知らず。吾子其れ少しく安んぜよ」と。孫子辭無く、亦た悛(あらた)むる容無し。穆叔曰く、「孫子必ず亡びん。臣と爲りて君たり、過ちて悛めず、亡の本なり。詩に曰く、『退食して公よりす、委蛇(いい)たり委蛇たり』と。從ふ者を謂ふなり。衡にして委蛇たらば必ず折れん」と。楚の子囊、陳を圍む。鄬(い)に會して以て之を救ふ。鄭の僖公の大子たるや、成の十六年に於て、子罕と晉に適き、焉を禮せず。又子豐と楚に適き、亦た焉を禮せず。其の元年に及び、晉に朝す。子豐、諸を晉に愬へて之を廢せんと欲す。子罕之を止む。將に鄬に會せんとするに及び、子駟相たり。又焉を禮せず。侍者諫む。聽かず。又諫む。之を殺す。鄵(そう)に及び、子駟、賊をして夜に僖公を弒せしめて、瘧疾を以て諸侯に赴す。簡公生まれて五年なり。奉じて之を立つ。陳人、楚を患ふ。慶虎・慶寅、楚人に謂ひて曰く、「吾、公子黃をして往かしめん。而(なんぢ)之を執へよ」と。楚人之に從ふ。二慶、使をして陳侯に會に告げしめて曰く、「楚人、公子黃を執へたり。君若し來らずんば、群臣社稷宗廟に忍びず、二圖有らんことを懼る」と。陳侯逃れ歸る。
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『春秋左氏伝』襄公二十五年 崔杼、棠姜を娶る二十五年春、齊の崔杼師を帥ゐて我が北鄙を伐つ、以って孝伯の師に報ゆるなり。公之を患ひ、晉に告げしむ。孟公綽曰く、「崔子將に大志有らんとす。我を病ましむるに在らず。必ず速やかに歸らん。何ぞ患へん。其の來るや寇せず、民を使ふこと嚴ならず、他日に異なり」と。齊師徒に歸る。齊の棠公の妻は、東郭偃の姊なり。東郭偃崔武子に臣たり。棠公死す。偃武子に御して以って焉に弔す。棠姜を見て之を美とし、偃をして之を取らしめんとす。偃曰く、「男女は姓を辨ず。今君は丁より出で、臣は桓より出づ。不可なり」と。武子之を筮し、困の大過に之くに遇ふ。史皆吉と曰ふ。陳文子に示す。文子曰く、「夫は風に從ひ、風は妻を隕す。聚(めと)る可からざるなり。且つ其の繇に曰く、『石に困しみ、蒺梨に據る。其の宮に入りて、其の妻を見ず。凶』と。石に困しむは、往きて濟らざるなり。蒺梨に據るは、恃む所傷つくなり。其の宮に入りて其の妻を見ず、凶なるは、歸する所無きなり」と。崔子曰く、「嫠なり、何ぞ害あらん。先夫之に當たれり」と。遂に之を取る。莊公焉に通じ、驟々崔氏に如く。崔子の冠を以って人に賜ふ。侍者曰く、「不可なり」と。公曰く、「崔子為らずとも、其れ冠無からんや」と。崔子是に因り、又其の晉を伐ちし間を以って、曰く、「晉必ず將に報いんとす」と。公を弒して以って晉に說かんと欲すれども、間を獲ず。公侍人賈舉を鞭ちて、而も又之に近づく。乃ち崔子の為に公を間す。
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『長短経』察相天王、単子をして韓宣子に戚に会せしむ。視は下り言は徐かなり。叔向曰く「単子は其れ将に死せんとするか。朝に著有り、定会に表有り、衣に襘有り、帯に結有り。会朝の言は、必ず表著の位に聞こゆ、事の序を昭らかにする所以なり。視は結・襘の中を過ぎず、容貌を導く所以なり。言は以て之を定め、容貌は以て之を明らかにす。失すれば則ち闕有り。今、単子は王官の伯と為りて事を会に命ず。視は帯に登らず、言は歩を過ぎず、貌は容を導かず、而して言は昭らかならず。導かざるは恭ならず、昭らかならざるは従わず、守気無し」と。此の冬、単子卒す。宋の平公、昭子を享す。晏飲楽しみ、語りて相泣く。楽祁佐たり。退きて人に告げて曰く「今茲、君と叔孫と其れ将に死せんとするか。吾れ之を聞く、哀しみに楽しみ楽しみに哀しむは、皆な心を喪うなり。心の精爽、是れを魂魄と謂う。魂魄之を去らば、何を以て能く久しからん」と。此の年、叔孫・宋公皆な卒す。