茶の本 / 第七章 茶の宗匠・人生七十力囲希咄
その式は終わった、客は涙をおさえかね、最後の訣別をして室を出て行く。彼に最も親密な者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるようにと頼まれる。そこで利休は茶会の服を脱いで、だいじにたたんで畳の上におく、それでその時まで隠れていた清浄無垢な白い死に装束があらわれる。彼は短剣の輝く刀身を恍惚とながめて、次の絶唱を詠む。人生七十 力囲希咄 吾が這の宝剣 祖仏共に殺す(三七)笑みを顔にうかべながら、利休は冥土へ行ったのであった。
書き下し
その式は終わった、客は涙をおさえかね、最後の訣別をして室を出て行く。彼に最も親密な者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるようにと頼まれる。そこで利休は茶会の服を脱いで、だいじにたたんで畳の上におく。それでその時まで隠れていた清浄無垢な白い死に装束があらわれる。彼は短剣の輝く刀身を恍惚とながめて、次の絶唱を詠む。人生七十、力囲希咄、吾が這の宝剣、祖仏共に殺す。笑みを顔にうかべながら、利休は冥土へ行ったのであった。
現代語訳
その式は終わりました。客は涙を抑えかね、最後の別れをして部屋を出ていきます。彼に最も親しい者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるように頼まれます。そこで利休は茶会の服を脱ぎ、大事に畳んで畳の上に置きます。それでそのときまで隠れていた清浄無垢な白い死装束が現れます。彼は短剣の輝く刀身をうっとりと眺めて、次の絶唱を詠みます。人生七十、力囲希咄、わがこの宝剣、祖仏ともに殺す。笑みを顔に浮かべながら、利休は冥土へ行ったのでした。
解説
この本の最後の段です。利休は茶会の服を丁寧に畳んでから、白い死装束を現す。最後まで所作が崩れません。辞世の句、人生七十力囲希咄、吾が這の宝剣、祖仏共に殺す。力囲希咄は気合の声とも掛け声とも読まれ、定まった解はありません。祖も仏も断ち切るという句は、第三章の木仏を焼いた僧と同じ気迫です。そして笑みを浮かべて去る。生の術を説いた本が、笑って死ぬ人の姿で閉じられました。
この章句が説くこと
利休辞世所作死結び
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