茶の本 / 第六章 花・いざさらば春よ
こういう例を見ると、「花御供」の意味が充分にわかる。たぶん花も充分にその真の意味を知るであろう。彼らは人間のような卑怯者ではない。花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野や嵐山のかおる雪崩の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く。」というようである。
書き下し
こういう例を見ると、「花御供」の意味が充分にわかる。たぶん花も充分にその真の意味を知るであろう。彼らは人間のような卑怯者ではない。花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野や嵐山のかおる雪崩の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら、「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く」というようである。
現代語訳
こういう例を見ると、花を供えることの意味が十分に分かります。おそらく花も十分にその真の意味を知るでしょう。彼らは人のような卑怯者ではありません。花によっては死を誇りとするものもあります。たしかに日本の桜は、風に身を任せてはらはらと落ちるとき、これを誇るのでしょう。吉野や嵐山の香る雪崩の前に立ったことのある人は、誰でもきっとそう感じたでしょう。宝石を散りばめた雲のように飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら、いざさらば春よ、私たちは永遠の旅に行く、と言うようです。
解説
第六章の結びです。花を切ることへの告発から始まった章が、花の側が死を誇るという地点に着地します。桜が散る姿を、諦めではなく誇りとして読む。そして最後に花自身の別れの言葉が置かれます。いざさらば春よ、私たちは永遠の旅に行く。変化こそが唯一の永遠だという章の中ほどの一句が、ここで花の台詞になって戻ってきました。散ることが旅の始まりだという結びです。
この章句が説くこと
花御供桜死誇り結び
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