茶の本 / 第六章 花・純潔と清楚に身をささげる
花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚」に身をささげる事によってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。
書き下し
花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところは、ただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚」に身をささげる事によって、その罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。
現代語訳
花をちぎることによって、新しい形を生み出し、世の人の考えを高めることができるなら、そうしてもよいではありませんか。私たちが花に求めるところは、ただ美への奉納をともにしようということだけです。私たちは清らかさと清楚さに身を捧げることによって、その罪を滅ぼしましょう。こういう論法で、茶人たちは生け花の法を定めたのです。
解説
章の前半で告発した花を切る行為に、条件つきの許しが与えられます。条件は二つで、新しい形を生んで人の考えを高めること、そして切る側が清らかさに身を捧げること。切ってよいかどうかは、切る者の生き方で決まるという判定です。罪滅ぼし、という言葉を使っているのが誠実で、正当化ではありません。この論法の上に、次の段から茶人の作法が説明されていきます。
この章句が説くこと
花許し条件清潔奉納
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