茶の本 / 第六章 花・利休の朝顔
花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。十六世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤のお耳に達すると太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこにはみごとなものが待っていて彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。
書き下し
花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。十六世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤のお耳に達すると、太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこには、みごとなものが待っていて、彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。
現代語訳
花物語は尽きませんが、もう一つだけ語ることにしましょう。十六世紀には、朝顔はまだ私たちに珍しいものでした。利休は庭全体にそれを植えさせ、丹精込めて育てました。利休の朝顔の名が太閤の耳に達すると、太閤はそれを見たいと言い出されました。そこで利休は自分の家の朝の茶の湯へお招きしました。その日になって太閤は庭中を歩いてご覧になりましたが、どこを見ても朝顔の跡形も見えませんでした。地面は平らにされ、美しい小石や砂が撒かれていました。その暴君はむっとした様子で茶室へ入りました。しかしそこには見事なものが待っていて、彼の機嫌はすっかり直りました。床の間には宋の細工の珍しい青銅の器に、庭全体の女王である一輪の朝顔があったのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『茶の本』第六章 花・花は王位についた皇子のように茶の宗匠が花を満足に生けると、彼はそれを日本間の上座にあたる床の間に置く。その効果を妨げるような物はいっさいその近くにはおかない。たとえば一幅の絵でも、その配合に何か特殊の審美的理由がなければならぬ。花はそこに王位についた皇子のようにすわっている。そして客やお弟子たちは、その室に入るやまずこれに丁寧なおじぎをしてから、始めて主人に挨拶をする。生花の傑作を写した絵が素人のために出版せられている。この事に関する文献はかなり大部なものである。花が色あせると宗匠はねんごろにそれを川に流し、または丁寧に地中に埋める。その霊を弔って墓碑を建てる事さえもある。
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『茶の本』第六章 花・一枝一条もみだりに切らないわが茶や花の宗匠のやり口を知っている人はだれでも、彼らが宗教的の尊敬をもって花を見る事に気がついたに違いない。彼らは一枝一条もみだりに切り取る事をしないで、おのが心に描く美的配合を目的に注意深く選択する。彼らは、もし絶対に必要の度を越えて万一切り取るようなことがあると、これを恥とした。これに関連して言ってもよろしいと思われる事は、彼らはいつも、多少でも葉があればこれを花に添えておくという事である。というのは、彼らの目的は花の生活の全美を表わすにあるから。この点については、その他の多くの点におけると同様、彼らの方法は西洋諸国に行なわれるものとは異なっている。かの国では、花梗のみ、いわば胴のない頭だけが乱雑に花瓶にさしこんであるのをよく見受ける。
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『茶の本』第六章 花・植木鉢をいじる人草花を作る人のためには大いに肩を持ってやってもよい。植木鉢をいじる人は花鋏の人よりもはるかに人情がある。彼が水や日光について心配したり、寄生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出ようがおそい時は心配し、葉に光沢が出て来ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものである。東洋では花卉栽培の道は非常に古いものであって、詩人の嗜好とその愛好する花卉は、しばしば物語や歌にしるされている。唐宋の時代には陶器術の発達に伴なって、花卉を入れる驚くべき器が作られたということである。といっても植木鉢ではなく、宝石をちりばめた御殿であった。花ごとに仕える特使が派遣せられ、兎の毛で作ったやわらかい刷毛でその葉を洗うのであった。
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『茶の本』第六章 花・花の生まれ故郷に花をたずねる花を理想的に愛する人は、破れた籬の前に座して野菊と語った陶淵明や、たそがれに、西湖の梅花の間を逍遙しながら、暗香浮動の趣に我れを忘れた林和靖のごとく、花の生まれ故郷に花をたずねる人々である。周茂叔は、彼の夢が蓮の花の夢と混ずるように、舟中に眠ったと伝えられている。この精神こそは奈良朝で有名な光明皇后のみ心を動かしたものであって、「折りつればたぶさにけがる立てながら三世の仏に花たてまつる」とお詠みになった。