茶の本 / 第六章 花・植木鉢をいじる人
草花を作る人のためには大いに肩を持ってやってもよい。植木鉢をいじる人は花鋏の人よりもはるかに人情がある。彼が水や日光について心配したり、寄生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出ようがおそい時は心配し、葉に光沢が出て来ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものである。東洋では花卉栽培の道は非常に古いものであって、詩人の嗜好とその愛好する花卉はしばしば物語や歌にしるされている。唐宋の時代には陶器術の発達に伴なって、花卉を入れる驚くべき器が作られたということである。といっても植木鉢ではなく宝石をちりばめた御殿であった。花ごとに仕える特使が派遣せられ、兎の毛で作ったやわらかい刷毛でその葉を洗うのであった。
書き下し
草花を作る人のためには大いに肩を持ってやってもよい。植木鉢をいじる人は花鋏の人よりもはるかに人情がある。彼が水や日光について心配したり、寄生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出ようがおそい時は心配し、葉に光沢が出て来ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものである。東洋では花卉栽培の道は非常に古いものであって、詩人の嗜好とその愛好する花卉は、しばしば物語や歌にしるされている。唐宋の時代には陶器術の発達に伴なって、花卉を入れる驚くべき器が作られたということである。といっても植木鉢ではなく、宝石をちりばめた御殿であった。花ごとに仕える特使が派遣せられ、兎の毛で作ったやわらかい刷毛でその葉を洗うのであった。
現代語訳
草花を育てる人のためには、大いに肩を持ってやってもよいでしょう。植木鉢をいじる人は、花鋏の人よりはるかに人情があります。彼が水や日光について心配したり、寄生虫と争ったり、霜を恐れたり、芽の出るのが遅いと心配し、葉に光沢が出てくると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものです。東洋では花を育てる道は非常に古いもので、詩人の好みと愛好する花は、しばしば物語や歌に記されています。唐宋の時代には陶器の技術の発達に伴って、花を入れる驚くべき器が作られたそうです。といっても植木鉢ではなく、宝石を散りばめた御殿でした。花ごとに仕える使いが派遣され、兎の毛で作った柔らかい刷毛でその葉を洗ったのです。
解説
この章句が説くこと
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