茶の本 / 第六章 花・神秘の火はわれらの弱点を焼く
拝火教徒が火中に迎えたものは、「すべてを呑噬するもの」の影であった。今日でも、神道の日本人がその前にひれ伏すところのものは、剣魂の氷のような純潔である。神秘の火はわれらの弱点を焼きつくし、神聖な剣は煩悩のきずなを断つ。われらの屍灰の中から天上の望みという不死の鳥が現われ、煩悩を脱していっそう高い人格が生まれ出て来る。
書き下し
拝火教徒が火中に迎えたものは、「すべてを呑噬するもの」の影であった。今日でも、神道の日本人がその前にひれ伏すところのものは、剣魂の氷のような純潔である。神秘の火はわれらの弱点を焼きつくし、神聖な剣は煩悩のきずなを断つ。われらの屍灰のなかから天上の望みという不死の鳥が現われ、煩悩を脱していっそう高い人格が生まれ出て来る。
現代語訳
拝火教徒が火の中に迎えたものは、すべてを呑み尽くすものの影でした。今日でも、神道の日本人がその前にひれ伏すものは、剣の魂の氷のような清らかさです。神秘の火は私たちの弱点を焼き尽くし、神聖な剣は煩悩の絆を断ちます。私たちの遺灰の中から天上の望みという不死の鳥が現れ、煩悩を脱してより高い人格が生まれ出てきます。
解説
死を迎える形が、火と剣という二つの象徴で示されます。拝火教は火を、神道は剣を前に置く。どちらも、焼き尽くし断ち切ることで清めるという発想です。そして灰の中から不死鳥が現れる。壊れることが生まれることだという前段の主張を、宗教の象徴で裏打ちしています。師導には神道の書も収めており、剣の清らかさという捉え方の背景をたどることができます。
この章句が説くこと
火剣浄化再生象徴
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