茶の本 / 第六章 花・その場で殺されたほうがよくはなかったか
お前たちは今にも気絶しそうな時に、煮え湯を足に注がれることもあろう。彼の治療を受けない場合に比べると、二週間以上も長くお前たちの体内に生命を保たせておくことができるのを彼は誇りとしているだろう。お前たちは初めて捕えられた時、その場で殺されたほうがよくはなかったか。いったいお前は前世でどんな罪を犯したとて、現世でこんな罰を当然受けねばならないのか。
書き下し
お前たちは今にも気絶しそうな時に、煮え湯を足に注がれることもあろう。彼の治療を受けない場合に比べると、二週間以上も長くお前たちの体内に生命を保たせておくことができるのを、彼は誇りとしているだろう。お前たちは初めて捕えられた時、その場で殺されたほうがよくはなかったか。いったいお前は前世でどんな罪を犯したとて、現世でこんな罰を当然受けねばならないのか。
現代語訳
お前たちは今にも気絶しそうなときに、煮え湯を足に注がれることもあろう。彼の治療を受けない場合と比べて、二週間以上も長くお前たちの体内に命を保たせておけることを、彼は誇りにしているだろう。お前たちは初めて捕えられたとき、その場で殺されたほうがよくはなかったか。いったいお前は前世でどんな罪を犯したというので、この世でこんな罰を当然受けねばならないのか。
解説
延命そのものへの疑問で、告発が頂点に達します。二週間長く生かせることを誇る技術は、誰のためのものか。その場で殺されたほうがよかったのではないか、と問う。これは花の話でありながら、同時に生きることそのものへの問いでもあります。長く保たせることが必ずしも善ではない。前世の罪という言い方で、理由のない苦しみへの問いにまで踏み込んでいます。
この章句が説くこと
延命疑問苦痛技術告発
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