茶の本 / 第六章 花・羊の皮をむいて見れば
悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいて見れば、心の奥の狼はすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩のほか何物も神聖なものはない。神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊して来たが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚く「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ! われらは神へ奉納するために自然を荒らしている物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう!
書き下し
悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱すること、あまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいて見れば、心の奥の狼はすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから、罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩のほか何物も神聖なものはない。神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊して来たが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚く「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ。われらは神へ奉納するために自然を荒らしている、物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう。
現代語訳
悲しいことに、私たちは花を絶えることのない友としながらも、まだ獣の域を脱することがそれほど遠くないという事実を覆い隠せません。羊の皮をむいて見れば、心の奥の狼がすぐにその歯を現すでしょう。世間では、人は十で獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人だと言います。たぶん人はいつまでも獣を脱しないから罪人になるのでしょう。飢えと渇きのほか、私たちに対して真実なものはなく、自分自身の煩悩のほか神聖なものはありません。神社仏閣は次から次へと目の前で崩れてきましたが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚く、自分という祭壇は永遠に保存されています。私たちの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ。私たちは神へ捧げるために自然を荒らしている。物質を征服したと誇っていますが、物質こそ私たちを奴隷にしたものだということを忘れています。私たちは教養や風雅の名を借りて、何という残忍非道を行っているのでしょう。
解説
この章句が説くこと
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