茶の本 / 第五章 芸術鑑賞・幾重にもある箱を開く
芸術において、類縁の精神が合一するほど世にも神聖なものはない。その会するやたちまちにして芸術愛好者は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は永劫を瞥見するけれども、目には舌なく、言葉をもってその喜びを声に表わすことはできない。彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている。かくのごとくして芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。これによってこそ傑作は神聖なものとなるのである。昔日本人が大芸術家の作品を崇敬したことは非常なものであった。茶人たちはその秘蔵の作品を守るに、宗教的秘密をもってしたから、御神龕(絹地の包みで、その中へやわらかに包んで奥の院が納めてある)まで達するには、幾重にもある箱をすっかり開かねばならないことがしばしばあった。その作品が人目にふれることはきわめてまれで、しかも奥義を授かった人にのみ限られていた。
書き下し
芸術において、類縁の精神が合一するほど世にも神聖なものはない。その会するや、たちまちにして芸術愛好者は自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は永劫を瞥見するけれども、目には舌なく、言葉をもってその喜びを声に表わすことはできない。彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている。かくのごとくして芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。これによってこそ傑作は神聖なものとなるのである。昔、日本人が大芸術家の作品を崇敬したことは非常なものであった。茶人たちはその秘蔵の作品を守るに、宗教的秘密をもってしたから、御神龕まで達するには、幾重にもある箱をすっかり開かねばならないことがしばしばあった。その作品が人目にふれることはきわめてまれで、しかも奥義を授かった人にのみ限られていた。
現代語訳
芸術において、似通った精神が一つになることほど神聖なものはありません。それが出会うと、たちまち芸術を愛する者は自分を超えます。彼は存在すると同時に存在しない。彼は永遠を垣間見ますが、目には舌がなく、言葉でその喜びを声に表すことはできません。彼の精神は物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いています。こうして芸術は宗教に近づき、人を気高くするのです。これによってこそ傑作は神聖なものとなります。昔、日本人が大芸術家の作品を崇敬したことは非常なものでした。茶人たちは秘蔵の作品を守るのに宗教的な秘密をもってしたので、奥の納めどころに達するには、幾重にもある箱をすっかり開けなければならないことがしばしばありました。その作品が人目に触れることはきわめてまれで、しかも奥義を授かった人にだけ限られていました。
解説
この章句が説くこと
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『茶の本』第五章 芸術鑑賞・万有の中に自分の姿を見るしかしながら、美術の価値はただそれがわれわれに語る程度によるものであることを忘れてはならない。その言葉は、もしわれわれの同情が普遍的であったならば、普遍的なものであるかもしれない。が、われわれの限定せられた性質、代々相伝の本性はもちろんのこと、慣例、因襲の力は、美術鑑賞力の範囲を制限するものである。われらの個性さえも、ある意味においてわれわれの理解力に制限を設けるものである。そして、われらの審美的個性は、過去の創作品のなかに自己の類縁を求める。もっとも、修養によって美術鑑賞力は増大するものであって、われわれはこれまでは認められなかった多くの美の表現を味わうことができるようになるものである。が、畢竟するところ、われわれは万有のなかに自分の姿を見るに過ぎないのである。すなわち、われら特有の性質がわれらの理解方式を定めるのである。茶人たちは全く各人個々の鑑賞力の及ぶ範囲内の物のみを収集した。
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