茶の本 / 第五章 芸術鑑賞・公衆が役者よりも多く知る
それは、ふたごの兄弟が、人違いのために苦しむという『まちがいつづき』に多少似ている脚本であった。近松が言うには、「これこそ、劇本来の精神をそなえている。というのは、これは見る人を考えに入れているから公衆が役者よりも多く知ることを許されている。公衆は誤りの因を知っていて、哀れにも、罪もなく運命の手におちて行く舞台の上の人々を哀れむ。」と。
書き下し
それは、ふたごの兄弟が、人違いのために苦しむという『まちがいつづき』に多少似ている脚本であった。近松が言うには、「これこそ、劇本来の精神をそなえている。というのは、これは見る人を考えに入れているから、公衆が役者よりも多く知ることを許されている。公衆は誤りの因を知っていて、哀れにも、罪もなく運命の手におちて行く舞台の上の人々を哀れむ」と。
現代語訳
それは、双子の兄弟が人違いのために苦しむという『まちがいつづき』に多少似た脚本でした。近松が言うには、これこそ劇本来の精神を備えている。これは見る人を考えに入れているので、観客が役者よりも多くを知ることを許されている。観客は誤りの原因を知っていて、哀れにも罪なく運命の手に落ちていく舞台の上の人々を哀れむのだ、と。
解説
近松が選んだ脚本の仕掛けが明かされます。観客だけが真相を知っている。舞台の人物は知らないまま、誤解のなかで苦しむ。だから観客は先を読めてしまい、それでも止められない。この構図が哀れを生む。秘密を明かすとは、観客を作者の側に引き上げることだったわけです。知らせないことで驚かせる作りより、知らせることで参加させる作りを上に置く。鑑賞を共同作業と見る態度の一貫した現れです。
この章句が説くこと
近松観客共有劇作哀れ
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