茶の本 / 第五章 芸術鑑賞・琴が伯牙か伯牙が琴か
次に伯牙は調べを変えて恋を歌った。森は深く思案にくれている熱烈な恋人のようにゆらいだ。空にはつんとした乙女のような冴えた美しい雲が飛んだ。しかし失望のような黒い長い影を地上にひいて過ぎて行った。さらに調べを変えて戦いを歌い、剣戟の響きや駒の蹄の音を歌った。すると、琴中に竜門の暴風雨起こり、竜は電光に乗じ、轟々たる雪崩は山々に鳴り渡った。帝王は狂喜して、伯牙に彼の成功の秘訣の存するところを尋ねた。彼は答えて言った、「陛下、他の人々は自己の事ばかり歌ったから失敗したのであります。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か伯牙が琴か、ほんとうに自分にもわかりませんでした。」と。
書き下し
次に伯牙は調べを変えて恋を歌った。森は深く思案にくれている熱烈な恋人のようにゆらいだ。空にはつんとした乙女のような冴えた美しい雲が飛んだ。しかし失望のような黒い長い影を地上にひいて過ぎて行った。さらに調べを変えて戦いを歌い、剣戟の響きや駒の蹄の音を歌った。すると、琴中に竜門の暴風雨起こり、竜は電光に乗じ、轟々たる雪崩は山々に鳴り渡った。帝王は狂喜して、伯牙に彼の成功の秘訣の存するところを尋ねた。彼は答えて言った、「陛下、他の人々は自己の事ばかり歌ったから失敗したのであります。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か伯牙が琴か、ほんとうに自分にもわかりませんでした」と。
現代語訳
次に伯牙は調べを変えて恋を歌いました。森は深く思案に暮れる熱烈な恋人のように揺れました。空にはつんとした乙女のような冴えた美しい雲が飛びました。しかし失望のような黒く長い影を地上に引いて過ぎていきました。さらに調べを変えて戦いを歌い、剣の響きや馬の蹄の音を歌いました。すると琴の中に竜門の暴風雨が起こり、竜は電光に乗じ、轟々と雪崩が山々に鳴り渡りました。帝王は狂喜して、伯牙に成功の秘訣はどこにあるのかと尋ねました。彼は答えて言いました。陛下、他の人々は自分のことばかり歌ったから失敗したのです。私は琴に楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙なのか伯牙が琴なのか、本当に自分にも分からなくなっていました、と。
解説
この章句が説くこと
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『茶の本』第五章 芸術鑑賞・傑作はわれわれによって存するこの物語は芸術鑑賞の極意をよく説明している。傑作というものは、われわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である。美の霊手に触れる時、わが心琴の神秘の弦は目ざめ、われわれはこれに呼応して振動し、肉をおどらせ血をわかす。心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。名匠はわれわれの知らぬ調べを呼び起こす。長く忘れていた追憶はすべて新しい意味をもってかえって来る。恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬が、栄えばえと現われて来る。わが心は画家の絵の具を塗る画布である。その色素はわれわれの感情である。その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。
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