茶の本 / 第四章 茶室・外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂
茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。十六世紀日本の改造統一にあずかった政治家やたけき武士にとって茶室はありがたい休養所となった。十七世紀徳川治世のきびしい儀式固守主義の発達した後は、茶室は芸術的精神と自由に交通する唯一の機会を与えてくれた。偉大なる芸術品の前には大名も武士も平民も差別はなかった。今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。
書き下し
茶室は簡素にして俗を離れているから、真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ、人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。十六世紀、日本の改造統一にあずかった政治家やたけき武士にとって、茶室はありがたい休養所となった。十七世紀徳川治世のきびしい儀式固守主義の発達した後は、茶室は芸術的精神と自由に交通する唯一の機会を与えてくれた。偉大なる芸術品の前には、大名も武士も平民も差別はなかった。今日は工業主義のために、真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。
現代語訳
茶室は簡素で俗を離れているから、真に外界の煩わしさから遠ざかった聖堂です。ただ茶室においてのみ、人は落ち着いて美を敬うことに身を捧げられます。十六世紀、日本の改造と統一に関わった政治家や剛毅な武士にとって、茶室はありがたい休息の場となりました。十七世紀、徳川の治世で厳しい儀式の固守が発達した後は、茶室は芸術の精神と自由に通じ合う唯一の機会を与えてくれました。偉大な芸術品の前では、大名も武士も平民も差別がありませんでした。今日は工業主義のために、真に風雅を楽しむことが世界のいたるところでますます難しくなっています。私たちは、今までよりもいっそう茶室を必要とするのではないでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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