茶の本 / 第四章 茶室・好き家・空き家・数奇家
茶室(数寄屋)は単なる小家で、それ以外のものをてらうものではない、いわゆる茅屋に過ぎない。数寄屋の原義は「好き家」である。後になっていろいろな宗匠が茶室に対するそれぞれの考えに従っていろいろな漢字を置き換えた、そして数寄屋という語は「空き家」または「数奇家」の意味にもなる。それは詩趣を宿すための仮りの住み家であるからには「好き家」である。さしあたって、ある美的必要を満たすためにおく物のほかは、いっさいの装飾を欠くからには「空き家」である。それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させるからには「数奇家」である。茶道の理想は十六世紀以来わが建築術に非常な影響を及ぼしたので、今日、日本の普通の家屋の内部はその装飾の配合が極端に簡素なため、外国人にはほとんど没趣味なものに見える。
書き下し
茶室は単なる小家で、それ以外のものをてらうものではない、いわゆる茅屋に過ぎない。数寄屋の原義は「好き家」である。後になっていろいろな宗匠が茶室に対するそれぞれの考えに従って、いろいろな漢字を置き換えた。そして数寄屋という語は「空き家」または「数奇家」の意味にもなる。それは詩趣を宿すための仮りの住み家であるからには「好き家」である。さしあたって、ある美的必要を満たすためにおく物のほかは、いっさいの装飾を欠くからには「空き家」である。それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させるからには「数奇家」である。茶道の理想は十六世紀以来わが建築術に非常な影響を及ぼしたので、今日、日本の普通の家屋の内部は、その装飾の配合が極端に簡素なため、外国人にはほとんど没趣味なものに見える。
現代語訳
茶室は単なる小さな家で、それ以上のものを誇るものではありません。いわゆる茅葺きの小屋にすぎません。数寄屋の元の意味は、好きな家です。のちにいろいろな宗匠が茶室についてそれぞれの考えに従って漢字を置き換え、数寄屋という語は、空いた家、あるいは数奇な家の意味にもなりました。詩の趣を宿すための仮の住まいであるからには、好きな家です。さしあたって何かの美的必要を満たすために置くもの以外、いっさいの装飾を欠くからには、空いた家です。不完全の崇拝に捧げられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにそれを完成させるからには、数奇な家です。茶道の理想は十六世紀以来わが国の建築に非常な影響を及ぼしたので、今日の日本の普通の家の内部は、装飾の配合が極端に簡素なため、外国人にはほとんど趣味のないものに見えます。
解説
この章句が説くこと
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『茶の本』第四章 茶室・茶室は暫定的である「好き家」という名は、ある個人の芸術的要求にかなうように作られた建物という意味を含んでいる。茶室は茶人のために作ったものであって、茶人は茶室のためのものではない。それは子孫のために作ったのではないから暫定的である。人は各自独立の家を持つべきであるという考えは、日本民族古来の習慣に基づいたもので、神道の迷信的習慣の定めによれば、いずれの家もその家長が死ぬと引き払うことになっている。この習慣はたぶん、あるわからない衛生上の理由もあってのことかもしれない。また別に昔の習慣として、新婚の夫婦には新築の家を与えるということもあった。こういう習慣のために古代の皇居は非常にしばしば次から次へとうつされた。伊勢の大廟を二十年ごとに再築するのは、古の儀式の今日なお行なわれている一例である。
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『茶の本』第四章 茶室・清貧を思わせる材料茶室は見たところなんの印象も与えない。それは日本のいちばん狭い家よりも狭い。それにその建築に用いられている材料は、清貧を思わせるようにできている。しかしこれはすべて深遠な芸術的思慮の結果であって、細部に至るまで、立派な宮殿寺院を建てるに費やす以上の周到な注意をもって細工が施されているということを忘れてはならない。よい茶室は普通の邸宅以上に費用がかかる、というのはその細工はもちろん、その材料の選択に多大の注意と綿密を要するから。実際茶人に用いられる大工は、職人のなかでも特殊な、非常に立派な部類を成している。彼らの仕事は漆器家具匠の仕事にも劣らぬ精巧なものであるから。
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『茶の本』第四章 茶室・ある中心点に注意を集中する「空き家」という言葉は、道教の万物包涵の説を伝えるほかに、装飾精神の変化を絶えず必要とする考えを含んでいる。茶室はただ暫時、美的感情を満足さすためにおかれる物を除いては、全く空虚である。何か特殊な美術品を臨時に持ち込む、そしてその他の物はすべて主調の美しさを増すように選択配合せられるのである。人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできぬ、美しいものの真の理解は、ただある中心点に注意を集中することによってのみできるのであるから。
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『茶の本』第四章 茶室・均斉を得るための努力を捨てる「数寄屋」は、わが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは、西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具、または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば、均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾は、その配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は、完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心のなかに完成する人によってのみ見いだされる。
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『茶の本』第四章 茶室・木材と竹を用いる建築石造や煉瓦造り建築の伝統によって育てられた欧州建築家の目には、木材や竹を用いるわが日本式建築法は、建築としての部類に入れる価値はほとんどないように思われる。ある相当立派な西洋建築の研究家が、わが国の大社寺の実に完備していることを認め、これを称揚したのは全くほんの最近のことである。わが国で一流の建築についてこういう事情であるから、西洋とは全く趣を異にする茶室の微妙な美しさ、その建築の原理および装飾が、門外漢に充分にわかろうとはまず予期できないことである。
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『茶の本』第四章 茶室・外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂茶室は簡素にして俗を離れているから、真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ、人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。十六世紀、日本の改造統一にあずかった政治家やたけき武士にとって、茶室はありがたい休養所となった。十七世紀徳川治世のきびしい儀式固守主義の発達した後は、茶室は芸術的精神と自由に交通する唯一の機会を与えてくれた。偉大なる芸術品の前には、大名も武士も平民も差別はなかった。今日は工業主義のために、真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。