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茶の本 / 第四章 茶室・西洋の屋内は博物館に変わる

かくのごとくわが茶室の装飾法は、現今西洋に行なわれている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わっているような装飾法とは趣を異にしていることがわかるだろう。装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。一個の傑作品でも絶えずながめて楽しむには多大の鑑賞力を要する。してみれば欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌たる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心はさぞかし際限もなく深いものであろう。

書き下し

かくのごとく、わが茶室の装飾法は、現今西洋に行なわれている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わっているような装飾法とは趣を異にしていることがわかるだろう。装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。一個の傑作品でも絶えずながめて楽しむには多大の鑑賞力を要する。してみれば、欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌たる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心は、さぞかし際限もなく深いものであろう。

現代語訳

このように、わが茶室の装飾法は、今の西洋で行われている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わってしまうような装飾法とは趣が異なることが分かるでしょう。装飾が単純で、装飾のしかたがしばしば変わるのに慣れている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品のおびただしい陳列で永久に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているにすぎない感じを与えます。一個の傑作でさえ、絶えず眺めて楽しむには多大な鑑賞力が要ります。であれば、欧米の家庭にしばしば見るような色彩と形の混沌の中で毎日毎日生きている人たちの風雅な心は、さぞかし際限なく深いものでしょう。

解説

最後の一文が痛烈な皮肉です。混沌の中で毎日暮らせる人の風雅な心はさぞ深いのだろう、と。傑作一つを見続けるだけでも鑑賞力が要るのに、と前置きしてあるので、意味は逆です。詰め込むことは富の誇示であって鑑賞ではない。穏やかな文体で最も強い批判を置くのが天心のやり方で、第一章の、袖の下で笑っているであろう、への返礼にもなっています。

この章句が説くこと

装飾過剰鑑賞皮肉簡素

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