茶の本 / 第四章 茶室・均斉は重複を表わす
人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表わすのみならず重複を表わすものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。人物は見る人みずからの姿として現われているのであるから。実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえも単調になりがちである。茶室においては重複の恐れが絶えずある。
書き下し
人生と芸術の力強いところは、その発達の可能性に存した。茶室においては、自己に関連して心のなかに全効果を完成することが、客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表わすのみならず、重複を表わすものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。人物は見る人みずからの姿として現われているのであるから。実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず、自愛さえも単調になりがちである。茶室においては重複の恐れが絶えずある。
現代語訳
人生と芸術の力強いところは、その発達の可能性にありました。茶室においては、自分自身に関連づけて心の中に全体の効果を完成させることが、客それぞれに任されています。禅の考え方が世間一般の思考の形になって以来、極東の美術は、左右の釣り合いが完成を表すだけでなく重複を表すものとして、ことさらに避けてきました。意匠が均等であることは、想像の新しさをまったく壊すものと考えられていました。このため人物よりも山水や花鳥を画題として好んで用いるようになりました。人物は、見る人自身の姿として現れているからです。実際、私たちは往々にして自分を表しすぎて困ります。そして虚栄心があるにもかかわらず、自分への愛さえ単調になりがちです。茶室においては重複の恐れが絶えずあります。
解説
この章句が説くこと
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