茶の本 / 第四章 茶室・均斉を得るための努力を捨てる
「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。
書き下し
「数寄屋」は、わが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは、西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具、または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば、均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾は、その配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は、完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心のなかに完成する人によってのみ見いだされる。
現代語訳
数奇な家という語は、わが装飾法の別の面を思わせます。日本の美術品が左右の釣り合いを欠いていることは、西洋の批評家がしばしば述べたところです。これもまた禅を通じて道教の理想が現れた結果です。儒教の根深い二元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して釣り合いの表現に反対したものではありません。実際、中国古代の青銅器や、唐代および奈良時代の宗教美術を研究してみれば、釣り合いを得るために絶えず努力したことが認められるでしょう。わが国の古典的な屋内装飾は、その配合がまったく釣り合いを保っていました。しかし道教や禅の完全という概念は別のものでした。彼らの哲学の動的な性質は、完全そのものよりも完全を求める手続きに重きを置きました。真の美は、ただ不完全を心の中に完成する人によってのみ見いだされます。
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