茶の本 / 第四章 茶室・均斉を得るための努力を捨てる
「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。
書き下し
「数寄屋」は、わが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは、西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具、または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば、均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾は、その配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は、完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心のなかに完成する人によってのみ見いだされる。
現代語訳
数奇な家という語は、わが装飾法の別の面を思わせます。日本の美術品が左右の釣り合いを欠いていることは、西洋の批評家がしばしば述べたところです。これもまた禅を通じて道教の理想が現れた結果です。儒教の根深い二元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して釣り合いの表現に反対したものではありません。実際、中国古代の青銅器や、唐代および奈良時代の宗教美術を研究してみれば、釣り合いを得るために絶えず努力したことが認められるでしょう。わが国の古典的な屋内装飾は、その配合がまったく釣り合いを保っていました。しかし道教や禅の完全という概念は別のものでした。彼らの哲学の動的な性質は、完全そのものよりも完全を求める手続きに重きを置きました。真の美は、ただ不完全を心の中に完成する人によってのみ見いだされます。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』兼愛下然らば即ち敢えて問う。今、此に平原廣野有り、甲を被り胄を嬰け、將に往きて戰わんとし、死生の權、未だ識る可からざるなり。又た君大夫の巴・越・齊・荆に逺使する有り、往來して及ぶや否や、未だ及ぶや否や、識る可からざるなり。然らば即ち將に家室を、親戚を奉承し、妻子を提挈して、之を寄託せんとするに、識らず、兼に於て是れ有らんか、别に於て是れ有らんか。哉ぞ以て其の此に於けるに當たりては、天下に愚夫愚婦無く、兼を非とするの人と雖も、必ず之を兼に寄託するに是れ有らんと為さん。言いて兼を非とし、擇びては即ち此れ言行の拂うなり。識らず、天下の士の、皆な兼を聞きて之を非とする所以の者は、其の故、何ぞや。
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『学問のすゝめ』十六編・心事と働きと相当すべきの論・心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ず第一 人の働きには、大小軽重の別あり。芝居も人の働きなり、学問も人の働きなり、人力車を挽くも、蒸気船を運用するも、鍬をとりて農業するも、筆を揮いて著述するも、等しく人の働きなれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽きの仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著書の業に従事するがごときは、働きの大小軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものなり。人間の美事と言うべし。然りしこうして、そのこれを弁別せしむるものはなんぞや。本人の心なり、また志なり。かかる心志ある人を名づけて心事高尚なる人物と言う。ゆえにいわく、人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざるなり。
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孫子・行軍篇之を令するに文を以てし、之を斉うるに武を以てす。是を必取と謂う。
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うひ山ぶみ・第八段然はあれども、まづかの学のしなじなは、他よりしひて、それをとはいひがたし、大抵みづから思ひよれる方にまかすべき也、
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「以て取る可く、以て取る無かる可し。取れば廉を傷つく。以て與う可く、以て與うる無かる可し。與うれば惠を傷つく。以て死す可く、以て死する無かる可し。死すれば勇を傷つく。」
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