茶の本 / 第四章 茶室・ある中心点に注意を集中する
「空き家」という言葉は道教の万物包涵の説を伝えるほかに、装飾精神の変化を絶えず必要とする考えを含んでいる。茶室はただ暫時美的感情を満足さすためにおかれる物を除いては、全く空虚である。何か特殊な美術品を臨時に持ち込む、そしてその他の物はすべて主調の美しさを増すように選択配合せられるのである。人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできぬ、美しいものの真の理解はただある中心点に注意を集中することによってのみできるのであるから。
書き下し
「空き家」という言葉は、道教の万物包涵の説を伝えるほかに、装飾精神の変化を絶えず必要とする考えを含んでいる。茶室はただ暫時、美的感情を満足さすためにおかれる物を除いては、全く空虚である。何か特殊な美術品を臨時に持ち込む、そしてその他の物はすべて主調の美しさを増すように選択配合せられるのである。人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできぬ、美しいものの真の理解は、ただある中心点に注意を集中することによってのみできるのであるから。
現代語訳
空いた家という言葉は、道教の万物を包み込む説を伝えるほかに、装飾の精神が絶えず変化することを必要とする考えを含んでいます。茶室は、ただしばらくの間、美的な感情を満たすために置かれる物を除いては、まったく空っぽです。何か特別な美術品を一時的に持ち込み、その他のものはすべて、主となる調べの美しさを増すように選び合わせられます。人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできません。美しいものの真の理解は、ただある中心点に注意を集中することによってのみできるからです。
解説
茶室が空である理由が、集中という観点から説明されます。音楽を同時に二つ聞けないのと同じで、美は中心が一つでなければ理解できない。だから飾りは一時的に一つだけ持ち込み、他はすべてそれを支える。これは選択の技術です。何を置くかより何を置かないかで決まる。第三章の虚の思想が、具体的な配置の原則になっています。
この章句が説くこと
空虚集中中心選択配置
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『墨子』兼愛下然らば即ち敢えて問う。今、此に平原廣野有り、甲を被り胄を嬰け、將に往きて戰わんとし、死生の權、未だ識る可からざるなり。又た君大夫の巴・越・齊・荆に逺使する有り、往來して及ぶや否や、未だ及ぶや否や、識る可からざるなり。然らば即ち將に家室を、親戚を奉承し、妻子を提挈して、之を寄託せんとするに、識らず、兼に於て是れ有らんか、别に於て是れ有らんか。哉ぞ以て其の此に於けるに當たりては、天下に愚夫愚婦無く、兼を非とするの人と雖も、必ず之を兼に寄託するに是れ有らんと為さん。言いて兼を非とし、擇びては即ち此れ言行の拂うなり。識らず、天下の士の、皆な兼を聞きて之を非とする所以の者は、其の故、何ぞや。
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『学問のすゝめ』十六編・心事と働きと相当すべきの論・心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ず第一 人の働きには、大小軽重の別あり。芝居も人の働きなり、学問も人の働きなり、人力車を挽くも、蒸気船を運用するも、鍬をとりて農業するも、筆を揮いて著述するも、等しく人の働きなれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽きの仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著書の業に従事するがごときは、働きの大小軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものなり。人間の美事と言うべし。然りしこうして、そのこれを弁別せしむるものはなんぞや。本人の心なり、また志なり。かかる心志ある人を名づけて心事高尚なる人物と言う。ゆえにいわく、人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざるなり。
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