茶の本 / 第四章 茶室・禅院の仏壇は床の間の原型
茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものである。禅院は他の宗派のものと異なってただ僧の住所として作られている。その会堂は礼拝巡礼の場所ではなくて、禅修行者が会合して討論し黙想する道場である。その室は、中央の壁の凹所、仏壇の後ろに禅宗の開祖菩提達磨の像か、または祖師迦葉と阿難陀をしたがえた釈迦牟尼の像があるのを除いてはなんの飾りもない。仏壇には、これら聖者の禅に対する貢献を記念して香華がささげてある。茶の湯の基をなしたものはほかではない、菩提達磨の像の前で同じ碗から次々に茶を喫むという禅僧たちの始めた儀式であったということはすでに述べたところである。が、さらにここに付言してよかろうと思われることは禅院の仏壇は、床の間――絵や花を置いて客を教化する日本間の上座――の原型であったということである。
書き下し
茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものである。禅院は他の宗派のものと異なって、ただ僧の住所として作られている。その会堂は礼拝巡礼の場所ではなくて、禅修行者が会合して討論し黙想する道場である。その室は、中央の壁の凹所、仏壇の後ろに禅宗の開祖菩提達磨の像か、または祖師迦葉と阿難陀をしたがえた釈迦牟尼の像があるのを除いては、なんの飾りもない。仏壇には、これら聖者の禅に対する貢献を記念して香華がささげてある。茶の湯の基をなしたものはほかではない、菩提達磨の像の前で同じ碗から次々に茶を喫むという禅僧たちの始めた儀式であったということは、すでに述べたところである。が、さらにここに付言してよかろうと思われることは、禅院の仏壇は、床の間――絵や花を置いて客を教化する日本間の上座――の原型であったということである。
現代語訳
茶室の簡素で清らかなさまは、禅寺に倣ったところから起こったものです。禅寺は他の宗派のものと異なり、ただ僧の住まいとして作られています。その会堂は礼拝や巡礼の場所ではなく、禅の修行者が集まって議論し黙想する道場です。その部屋は、中央の壁のくぼみ、仏壇の後ろに禅宗の開祖である達磨の像か、あるいは迦葉と阿難陀を従えた釈迦の像があるのを除いて、何の飾りもありません。仏壇には、これらの聖者が禅に対してなした貢献を記念して香と花が供えてあります。茶の湯の基礎を成したものは、達磨の像の前で同じ碗から次々に茶を飲むという禅僧が始めた儀式だったことは、すでに述べました。さらに付け加えてよいと思われるのは、禅寺の仏壇が、絵や花を置いて客を教化する日本間の上座、すなわち床の間の原型だったということです。
解説
この章句が説くこと
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