茶の本 / 第三章 道教と禅道・人生の些事の中にでも偉大を
こういうふうにして、庭の草をむしりながらでも、蕪菁を切りながらでも、またはお茶をくみながらでも、いくつもいくつも重要な論議が次から次へと行なわれた。茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え禅はこれを実際的なものとした。
書き下し
こういうふうにして、庭の草をむしりながらでも、蕪菁を切りながらでも、またはお茶をくみながらでも、いくつもいくつも重要な論議が次から次へと行なわれた。茶道いっさいの理想は、人生の些事のなかにでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え、禅はこれを実際的なものとした。
現代語訳
こういうふうにして、庭の草をむしりながらでも、蕪を切りながらでも、あるいは茶を汲みながらでも、いくつもいくつも重要な議論が次から次へと行われました。茶道のすべての理想は、人生の些細なことの中にも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものです。道教は美の理想の基礎を与え、禅はこれを実際のものにしました。
解説
第三章の結びで、二つの思想の役割分担が一行にまとめられます。道教が基礎を与え、禅が実際のものにした。理念と実践の分担です。そして禅の実践がどこにあるかも示される。草むしり、蕪を切る、茶を汲む。重要な議論が、その手を動かしながら交わされた。特別な場ではなく手仕事の途中に思想があるという姿で、次章の茶室、すなわち手仕事の場そのものへ話が移っていきます。
この章句が説くこと
禅日常実践茶道道教
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