茶の本 / 第三章 道教と禅道・お舎利の出ない仏様なら
かたわらにいた人は非常に恐れて言った、「なんとまあもったいない!」と。和尚は落ち着き払って答えた、「わしは仏様を焼いて、お前さんたちのありがたがっているお舎利を取るのだ。」「木仏の頭からお舎利が出てたまるものですか。」とつっけんどんな受け答えに、丹霞和尚がこたえて言った、「もし、お舎利の出ない仏様なら、何ももったいないことはないではないか。」そう言って振り向いてたき火にからだをあたためた。
書き下し
かたわらにいた人は非常に恐れて言った、「なんとまあもったいない」と。和尚は落ち着き払って答えた、「わしは仏様を焼いて、お前さんたちのありがたがっているお舎利を取るのだ」。「木仏の頭からお舎利が出てたまるものですか」とつっけんどんな受け答えに、丹霞和尚がこたえて言った、「もし、お舎利の出ない仏様なら、何ももったいないことはないではないか」。そう言って振り向いて、たき火にからだをあたためた。
現代語訳
傍にいた人は非常に恐れて言いました。なんともったいないことを、と。和尚は落ち着き払って答えました。私は仏様を焼いて、お前さんたちが有難がっている舎利を取るのだ、と。木の仏像の頭から舎利が出てたまるものですか、というつっけんどんな返事に、丹霞和尚は答えて言いました。もし舎利の出ない仏様なら、何ももったいないことはないではないか、と。そう言って振り向き、焚き火で体を温めました。
解説
問答の切れ味が冴える一段です。木の仏像から舎利は出ないと相手が認めた瞬間、では惜しむ理由もないと畳む。神聖さは物に宿るのではなく、扱う人の心にあるという主張が、論理だけで示されました。そして最後の一行が最良です。言い終えて振り向き、焚き火で体を温める。議論に勝つためではなく、実際に寒かったから焼いたのだと分かる。理屈より前に、目の前の必要に応じている姿です。
この章句が説くこと
禅問答神聖実際簡素
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