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茶の本 / 第三章 道教と禅道・子は我れにあらず

祖師は言った、「そうではない、おまえに残忍性があるからだ。」と。この対話は道教の徒荘子の話を思い起させる。ある日荘子友と濠梁のほとりに遊んだ。荘子いわく「儵魚いで遊びて従容たり。これ魚の楽しむなり。」と。その友彼に答えていわく「子は魚にあらず。いずくんぞ魚の楽しきを知らん。」と。「子は我れにあらず、いずくんぞわが魚の楽しきを知らざるを知らん。」と荘子は答えた。

書き下し

祖師は言った、「そうではない、おまえに残忍性があるからだ」と。この対話は道教の徒荘子の話を思い起させる。ある日荘子、友と濠梁のほとりに遊んだ。荘子いわく「儵魚いで遊びて従容たり。これ魚の楽しむなり」と。その友彼に答えていわく「子は魚にあらず。いずくんぞ魚の楽しきを知らん」と。「子は我れにあらず、いずくんぞわが魚の楽しきを知らざるを知らん」と荘子は答えた。

現代語訳

祖師は言いました。そうではない、お前に残忍さがあるからだ、と。この対話は、道教の荘子の話を思い起こさせます。ある日、荘子が友と濠水の橋のほとりに遊びました。荘子が言うには、はやが出て泳いでゆったりしている、これが魚の楽しみだ、と。その友が答えて言うには、あなたは魚ではない、どうして魚の楽しみが分かるのか、と。あなたは私ではない、どうして私に魚の楽しみが分からないと分かるのか、と荘子は答えました。

解説

兎が逃げたのは、お前に残忍さがあるからだ、と師が言い切ります。外の出来事の原因を、見ている自分の中に探させる問答です。そして『荘子』秋水篇の魚の楽しみの話が並べられます。魚ではないのに魚の楽しみが分かるのか、と問われて、あなたは私ではないのに私に分からないと分かるのか、と返す。認識の限界を相手にも折り返す切り返しで、禅と道教が同じ地平にあることが示されます。師導には『荘子』を収めています。

この章句が説くこと

荘子認識問答自己

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