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茶の本 / 第三章 道教と禅道・丹霞和尚、木仏を焚く

禅は正統の仏道の教えとしばしば相反した、ちょうど道教が儒教と相反したように。禅門の徒の先験的洞察に対しては言語はただ思想の妨害となるものであった。仏典のあらん限りの力をもってしてもただ個人的思索の注釈に過ぎないのである。禅門の徒は事物の内面的精神と直接交通しようと志し、その外面的の付属物はただ真理に到達する阻害と見なした。この絶対を愛する精神こそは禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨絵の略画を選ばしめるに至ったのである。禅学徒の中には、偶像や象徴によらないでおのれの中に仏陀を認めようと努めた結果、偶像破壊主義者になったものさえある。丹霞和尚は大寒の日に木仏を取ってこれを焚いたという話がある。

書き下し

禅は正統の仏道の教えとしばしば相反した、ちょうど道教が儒教と相反したように。禅門の徒の先験的洞察に対しては、言語はただ思想の妨害となるものであった。仏典のあらん限りの力をもってしてもただ個人的思索の注釈に過ぎないのである。禅門の徒は事物の内面的精神と直接交通しようと志し、その外面的の付属物はただ真理に到達する阻害と見なした。この絶対を愛する精神こそは、禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨絵の略画を選ばしめるに至ったのである。禅学徒のなかには、偶像や象徴によらないでおのれのなかに仏陀を認めようと努めた結果、偶像破壊主義者になったものさえある。丹霞和尚は大寒の日に木仏を取ってこれを焚いたという話がある。

現代語訳

禅は正統の仏教の教えとしばしば対立しました。ちょうど道教が儒教と対立したように。禅の徒の直観に対しては、言語はただ思想の妨げでした。仏典のあらゆる力をもってしても、ただ個人の思索の注釈にすぎません。禅の徒は物事の内面の精神と直接に通じ合おうとし、その外面の付属物はただ真理に到達する妨げと見なしました。この絶対を愛する精神こそが、禅の徒に、古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨絵の略画を選ばせるに至ったのです。禅の学徒の中には、偶像や象徴によらず自分の中に仏を認めようと努めた結果、偶像破壊主義者になった者さえいます。丹霞和尚は、大寒の日に木仏を取ってこれを焚いたという話があります。

解説

禅が言葉と形を退ける理由が述べられます。言語は妨げ、経典は個人の注釈にすぎない。外面の付属物は真理への邪魔だから、彩色画より墨絵を選ぶ。装飾を削っていく美意識の源がここにあります。そして極端な例として、木の仏像を薪にした僧が紹介される。何を大切にすると言いながら形を焼くのか、という問いが次の段で答えられます。茶室の簡素さの理屈が、禅の側からも用意されました。

この章句が説くこと

言語装飾偶像簡素

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