茶の本 / 第三章 道教と禅道・禅那すなわち静慮
さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語の禅那(Dhyana)から出た名であってその意味は静慮である。精進静慮することによって、自性了解の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅密の一つであって、釈迦牟尼はその後年の教えにおいて、特にこの方法を力説し、六則をその高弟迦葉に伝えたと禅宗徒は確言している。かれらの言い伝えによれば、禅の始祖迦葉はその奥義を阿難陀に伝え、阿難陀から順次に祖師相伝えてついに第二十八祖菩提達磨に至った。菩提達磨は六世紀の前半に北シナに渡ってシナ禅宗の第一祖となった。これらの祖師やその教理の歴史については不確実なところが多い。
書き下し
さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語の禅那から出た名であって、その意味は静慮である。精進静慮することによって、自性了解の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅密の一つであって、釈迦牟尼はその後年の教えにおいて特にこの方法を力説し、六則をその高弟迦葉に伝えたと禅宗徒は確言している。かれらの言い伝えによれば、禅の始祖迦葉はその奥義を阿難陀に伝え、阿難陀から順次に祖師相伝えて、ついに第二十八祖菩提達磨に至った。菩提達磨は六世紀の前半に北シナに渡って、シナ禅宗の第一祖となった。これらの祖師やその教理の歴史については不確実なところが多い。
現代語訳
さて禅に注意を向けてみると、それが道教の教えを強調していることが分かるでしょう。禅はサンスクリットの禅那から出た名で、その意味は静かに思うことです。精進して静かに思うことによって、自らの本性を了解する極みに達することができると禅は主張します。静かに思うことは悟りに入るための六つの修行の一つで、釈迦は後年の教えでとくにこの方法を力説し、六つの則を高弟の迦葉に伝えたと禅宗の徒は言います。彼らの言い伝えによれば、禅の始祖である迦葉はその奥義を阿難陀に伝え、阿難陀から順次に祖師が伝えて、ついに二十八祖の達磨に至りました。達磨は六世紀の前半に北中国に渡り、中国禅宗の第一祖となりました。これらの祖師やその教理の歴史については、不確実なところが多いのです。
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