茶の本 / 第三章 道教と禅道・虚においてのみ運動が可能となる
道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。
書き下し
道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば、人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが、浮世芝居の成功の秘訣である。われわれは、おのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩で説明している。物の真に肝要なところは、ただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは、水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。
現代語訳
道教の徒はこう主張しました。もし誰も彼もみなが統一を保つようにするなら、人生の喜劇はさらに面白くすることができる、と。物の釣り合いを保ち、自分の立場を失わずに他人に譲ることが、浮世芝居を成功させる秘訣です。私たちは自分の役を立派に務めるために、その芝居の全体を知っていなければなりません。個人を考えるために、全体を考えることを忘れてはならない。このことを老子は、虚という得意の隠喩で説明しました。物の真に肝要なところは、ただ虚にのみある、と彼は主張します。たとえば部屋の本質は、屋根と壁に囲まれた空っぽなところに見いだされるのであって、屋根や壁そのものにはありません。水差しの役に立つところは、水を注ぎ込める空所にあって、その形や製品の出来にはありません。虚はすべてのものを含むから万能です。虚においてのみ運動が可能になります。自分を虚にして他を自由に入らせることのできる人は、あらゆる立場で自由に動けるようになるでしょう。全体は常に部分を支配することができるのです。
解説
この章句が説くこと
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