茶の本 / 第三章 道教と禅道・温なること玉のごとし
道教思想の雄渾なところは、その後続いて起こった種々の運動を支配したその力にも見られるが、それに劣らず、同時代の思想を切り抜けたその力に存している。秦朝、といえばシナという名もこれに由来しているかの統一時代であるが、その朝を通じて道教は一活動力であった。もし時の余裕があれば、道教がその時代の思想家、数学家、法律家、兵法家、神秘家、錬金術家および後の江畔自然詩人らに及ぼした影響を注意して見るのも興味あることであろう。また白馬は白く、あるいは堅きがゆえにその実在いかんを疑った実在論者(二一)や、禅門のごとく清浄、絶対について談論した六朝の清談家も無視することはできぬ。なかんずく、道教がシナ国民性の形成に寄与したところ、「温なること玉のごとし」という慎み、上品の力を与えた点に対して敬意を表すべきである。
書き下し
道教思想の雄渾なところは、その後続いて起こった種々の運動を支配したその力にも見られるが、それに劣らず、同時代の思想を切り抜けたその力に存している。秦朝、といえばシナという名もこれに由来しているかの統一時代であるが、その朝を通じて道教は一活動力であった。もし時の余裕があれば、道教がその時代の思想家、数学家、法律家、兵法家、神秘家、錬金術家および後の江畔自然詩人らに及ぼした影響を注意して見るのも興味あることであろう。また、白馬は白く、あるいは堅きがゆえにその実在いかんを疑った実在論者や、禅門のごとく清浄、絶対について談論した六朝の清談家も無視することはできぬ。なかんずく、道教がシナ国民性の形成に寄与したところ、「温なること玉のごとし」という慎み、上品の力を与えた点に対して敬意を表すべきである。
現代語訳
道教思想の雄大なところは、その後に続いて起こったさまざまな運動を支配した力にも見られますが、それに劣らず、同時代の思想を切り抜けた力にもあります。秦の王朝、中国という名もこれに由来する統一の時代ですが、その王朝を通じて道教は一つの活動する力でした。もし時間の余裕があれば、道教がその時代の思想家、数学者、法律家、兵法家、神秘家、錬金術家、そして後の長江のほとりの自然詩人たちに及ぼした影響を注意して見るのも興味深いでしょう。また、白馬は白いから、あるいは堅いから、その実在はどうかと疑った実在論者や、禅のように清浄と絶対について語り合った六朝の清談家も無視できません。とりわけ、道教が中国の国民性の形成に寄与したところ、温かさが玉のようであるという慎みと品位の力を与えた点に対して、敬意を表すべきです。
解説
この章句が説くこと
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風姿花伝・第二 物学条々物まねの品々、筆に尽しがたし。さりながら、この道の肝要なれば、その品々をいかにもいかにも嗜むべし。凡そ何事をも残さずよく似せんが本意なり。然れどもまた、事によりて濃き淡きを知るべし。先づ国王大臣より始めたてまつりて、公家の御たたずまひ、武家の御進退は、及ぶべきところにあらざれば、十分ならんことかたし。さりながら、よくよく言葉を尋ね、品を求めて、見所の御意見を待つべきものなり。その外、上職の品々、花鳥風月の事態、いかにもいかにもこまかにすべし。田夫野人の事にいたりては、さのみにこまかに賤しげなるわざをば似すべからず。仮令、樵夫・草刈・炭焼・塩汲なんどの風情にもなりつべきわざをば、こまかに似すべきか。それよりなほくはしからん下職をば、さのみには似すまじきなり。これ上方の御目に見ゆべからず。若し見えば、あまりに賤しくておもしろき所あるべからず。このあてがひをよくよく心得べし。似事の人体によりて浅深あるべきなり。
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説苑・奉使晏子楚に使いす。晏子短し。楚人大門の側に小門を爲りて晏子を延く。晏子入らずして曰く、「狗國に使いする者は狗門より入る。今臣楚に使いす、當に此の門より入るべからず。」儐者更めて大門より入りて楚王に見えしむ。王曰く、「齊人無きか。」晏子對えて曰く、「齊の臨淄三百閭、袂を張れば帷を成し、汗を揮えば雨を成す。肩を比べ踵を繼ぎて在り、何為れぞ人無からんや。」王曰く、「然らば則ち何為れぞ子を使わす。」晏子對えて曰く、「齊使いを命ずるに各々主とする所有り。其の賢者は賢主に使いし、不肖なる者は不肖なる主に使いす。嬰最も不肖なり、故に宜しく楚に使いすべきのみ。」
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葉隠・聞書第一山崎蔵人(やまざきくらんど)は一生、仕舞物(しまいもの)と名の附(つ)きたる物は取られず候。さてまた町人の宅(たく)へ一生参り申されず候。誠に奉公人の嗜(たしな)み、斯様(かよう)にこそありたく候。石井九郎右衛門(いしいくろうえもん)も仕舞物仕(つかまつ)られず候。近代の衆(しゅう)は仕舞物とさえいえば我先(われさき)にと望を掛け、町人などの所へは無理に押掛(おしか)け振舞(ふるまい)致させ、店棚(みせだな)に調物(ととのえもの)に参り候事を慰みなどと取りなし候事、風儀(ふうぎ)悪しく、侍の本意(ほんい)にあらずと存じ候。
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葉隠・聞書第一の様子はいからう(いかようにも)あるべき事である。心を附けて見るに、おおかた飲むばかりである。気が附かねば卑(いや)しく見ゆるばかりである。おおかた、人の心入(こころい)れは、酒盛にてあらわれる物である。
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葉隠・聞書第一御道具を仕舞物にして取りがちに仕(つかまつ)られ候。これにて了簡(りょうけん)仕られ候え、頼まれぬ心入(こころい)れなり。御秘蔵(ごひぞう)・御寵愛(ごちょうあい)にて、七重八重(ななえやえ)の袋・箱に入れたる御道具どもを、直段附(ねだんづ)けをして奪い取り、主君の御魂(みたま)入れられたる物を我々(われわれ)の家内(かない)の道具に使う事、勿体至極(もったいしごく)もなき事ぞかし。御罰(おばち)を蒙(こうむ)らずとも、心よく有る事は了簡に及ばざる事なり。鼻の先許りの奉公、君臣(くんしん)の義理はなき事なり。
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論語・八佾篇子曰わく、君子は争う所無し。必ずや射か。揖譲して升り、下りて飲む。その争いは君子なり。