茶の本 / 第二章 茶の諸流・老いて夢よりさめた
後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想的なものではない。かの国の長い災禍は人生の意義に対する彼の強い興味を奪ってしまった。彼は現代的になった、すなわち老いて夢よりさめた。彼は詩人や古人の永遠の若さと元気を構成する幻影に対する崇高な信念を失ってしまった。彼は折衷家となって宇宙の因襲を静かに信じてこんなものだと悟っている。天をもてあそぶけれども、へりくだって天を征服しまたはこれを崇拝することはしない。彼の葉茶は花のごとき芳香を放ってしばしば驚嘆すべきものがあるが、唐宋時代の茶の湯のロマンスは彼の茶碗には見ることができない。
書き下し
後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想的なものではない。かの国の長い災禍は、人生の意義に対する彼の強い興味を奪ってしまった。彼は現代的になった、すなわち老いて夢よりさめた。彼は詩人や古人の永遠の若さと元気を構成する幻影に対する崇高な信念を失ってしまった。彼は折衷家となって、宇宙の因襲を静かに信じてこんなものだと悟っている。天をもてあそぶけれども、へりくだって天を征服し、またはこれを崇拝することはしない。彼の葉茶は花のごとき芳香を放ってしばしば驚嘆すべきものがあるが、唐宋時代の茶の湯のロマンスは彼の茶碗には見ることができない。
現代語訳
後の世の中国人にとって、茶は美味しい飲み物ではあっても理想的なものではありません。その国の長い災禍は、人生の意味に対する彼の強い興味を奪ってしまった。彼は現代的になった、すなわち老いて夢からさめたのです。彼は詩人や古人の永遠の若さと元気を作っていた幻想への崇高な信念を失ってしまった。彼は折衷家となり、宇宙の決まりごとを静かに信じて、こんなものだと悟っている。天をもてあそびはするが、へりくだって天を征服することも、これを崇拝することもしない。彼の葉茶は花のような香りを放ってしばしば驚くべきものがありますが、唐や宋の時代の茶の湯の物語は、彼の茶碗には見ることができません。
解説
現代的になったとは、老いて夢からさめたことだ、という定義が置かれます。手厳しい見方ですが、対象は中国だけでなく近代そのものでしょう。こんなものだと悟った人は、もはや天を敬いも挑みもしない。信念を失った賢さを、天心は成熟ではなく喪失として描きます。茶そのものは良質なのに、物語が失われた。次の段で、その物語が日本に残ったと続くための対比です。
この章句が説くこと
近代喪失諦念物語成熟
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