茶の本 / 第二章 茶の諸流・完成することであって完成ではない
宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界に映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫はこれただ瞬時――涅槃はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。かくのごとくして人は直ちに天に直面するようになった。新しい意味は次第に生の術にはいって来た。茶は風流な遊びではなくなって、自性了解の一つの方法となって来た。
書き下し
宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界に映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫はこれただ瞬時――涅槃はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが、彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。かくのごとくして人は直ちに天に直面するようになった。新しい意味は次第に生の術にはいって来た。茶は風流な遊びではなくなって、自性了解の一つの方法となって来た。
現代語訳
宋の人の茶に対する理想は唐の人とは異なっていました。ちょうどその人生観が違っていたように。宋の人は、先祖が象徴によって表そうとしたことを、写実的に表そうと努めました。新しい儒学の心には、宇宙の法則がこの現象世界に映るのではなく、この現象世界こそが宇宙の法則そのものでした。永遠とはただこの瞬間であり、涅槃は常に手のうちにあり、不朽は永遠の変化の中にあるという道教の考えが、彼らのあらゆる考え方に染み込んでいました。興味があるのはその過程であって、行為の結果ではなかった。真に肝要なのは完成していくことであって、完成そのものではなかった。こうして人はただちに天と向き合うようになった。新しい意味が次第に生の術に入ってきました。茶は風流な遊びではなくなり、自らの本性を了解する一つの方法となってきたのです。
解説
この章句が説くこと
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