茶の本 / 第一章 人情の碗・茶は薬用として始まった
茶は薬用として始まり後飲料となる。シナにおいては八世紀に高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。
書き下し
茶は薬用として始まり、後に飲料となる。シナにおいては八世紀に、高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り、日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事のなかに存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。
現代語訳
茶は薬として始まり、のちに飲み物になりました。中国では八世紀に、高雅な遊びの一つとして詩歌の域にまで達します。十五世紀になって、日本はこれを高め、一種の美の宗教、すなわち茶道にまで進めました。茶道とは、日常生活のありふれた事柄の中にある美しいものを敬うことに基づく儀式であり、純粋と調和、たがいに思いやることの奥深さ、社会の秩序の詩情を、繰り返し説くものです。茶道の要点は、不完全なものを敬うところにあります。人生というこの分からないものの中で、何か可能なことを成し遂げようとする、ささやかな試みだからです。
解説
一冊の主題が最初の数行に畳まれています。薬から飲み物へ、遊びから宗教へと、茶の位置が歴史の中で上がっていく筋道を示したうえで、茶道の核心を不完全なものの崇拝と定義します。完全を目指すのではなく、欠けたままのものの中に美を見る。人生が分からないものであることを前提に置いて、その中で何かを成そうとする試みだと言う。岡倉天心が英語で書き、欧米の読者に向けて日本の美意識を説明した本の、最初の一撃です。
この章句が説くこと
茶道美不完全日常儀式
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