茶の本 / 第二章 茶の諸流・古典的・ローマン的・自然主義的
煮る団茶、かき回す粉茶、淹す葉茶はそれぞれ、唐、宋、明の気分を明らかに示している。もし、芸術分類に濫用された名称を借りるとすれば、これらをそれぞれ、古典的、ローマン的、および自然主義的な茶の諸流と言えるであろう。
書き下し
煮る団茶、かき回す粉茶、淹す葉茶はそれぞれ、唐、宋、明の気分を明らかに示している。もし、芸術分類に濫用された名称を借りるとすれば、これらをそれぞれ、古典的、ローマン的、および自然主義的な茶の諸流と言えるであろう。
現代語訳
煮る固形の茶、かき回す粉の茶、浸す葉の茶は、それぞれ唐、宋、明の気分をはっきり示しています。もし芸術の分類で使い古された名称を借りるなら、これらをそれぞれ、古典的、ロマン的、そして自然主義的な茶の流派と言えるでしょう。
解説
三つの茶を、西洋美術史の用語に対応させた一段です。唐は古典的、宋はロマン的、明は自然主義的。欧米の読者に向けて書かれた本であることが、この対応づけによく表れています。自国の文化を説明するのに相手の物差しを借りる、という手つきで、天心はこれを臆せずやる。濫用された名称を借りるとすれば、と断りを入れているのが慎重なところで、当てはめが完全でないことは承知のうえの便法です。
この章句が説くこと
時代分類対応説明様式
関連する章句
-
『茶の本』第五章 芸術鑑賞・あまりに分類し過ぎて楽しむことが少ない進化論の盛んであった十九世紀には、人類のことを考えて個人を忘れる習慣が作られた。収集家は一時期あるいは一派を説明する資料を得んことを切望して、ただ一個の傑作が、よく一定の時期あるいは一派のいかなる多数の凡俗な作にもまさって、われわれを教えるものであるということを忘れている。われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒であった。
-
『墨子』非攻下今、還た夫の攻伐を好むの君、乂た其の説を飾りて以て子墨子を非として曰く、攻伐を以て不義と為すは、利物に非ざるか。昔者、禹は有苗を征し、湯は桀を伐ち、武王は紂を伐つ。此れ皆な立ちて聖王と為る。是れ何の故ぞや、と。子墨子曰く、子は未だ吾が言の類を察せず、未だ其の故に明らかならざる者なり。彼は謂う所の攻に非ず、誅と謂うなり。
-
孫子・火攻篇凡そ火攻に五有り。一に曰く火人、二に曰く火積、三に曰く火輜、四に曰く火庫、五に曰く火隊。
-
孫子・火攻篇孫子曰く、凡そ火攻に五つ有り。一に曰く火人、二に曰く火積、三に曰く火輜、四に曰く火庫、五に曰く火隊。
-
孫子・九地篇孫子曰く、凡そ用兵の法は、散地有り、軽地有り、争地有り、交地有り、衢地有り、重地有り、圮地有り、囲地有り、死地有り。
-
孫子・用間篇故に間を用うるに五有り。郷間有り、内間有り、反間有り、死間有り、生間有り。