茶の本 / 第二章 茶の諸流・粉茶は全く忘れられている
不幸にして十三世紀蒙古種族の突如として起こるにあい、元朝の暴政によってシナはついに劫掠征服せられ、宋代文化の所産はことごとく破壊せらるるに至った。十七世紀の中葉に国家再興を企ててシナ本国から起こった明朝は内紛のために悩まされ、次いで十八世紀、シナはふたたび北狄満州人の支配するところとなった。風俗習慣は変じて昔日の面影もなくなった。粉茶は全く忘れられている。明の一訓詁学者は宋代典籍の一にあげてある茶筅の形状を思い起こすに苦しんでいる。現今の茶は葉を碗に入れて湯に浸して飲むのである。西洋の諸国が古い喫茶法を知らない理由は、ヨーロッパ人は明朝の末期に茶を知ったばかりであるという事実によって説明ができるのである。
書き下し
不幸にして十三世紀、蒙古種族の突如として起こるにあい、元朝の暴政によってシナはついに劫掠征服せられ、宋代文化の所産はことごとく破壊せらるるに至った。十七世紀の中葉に国家再興を企ててシナ本国から起こった明朝は、内紛のために悩まされ、次いで十八世紀、シナはふたたび北狄満州人の支配するところとなった。風俗習慣は変じて昔日の面影もなくなった。粉茶は全く忘れられている。明の一訓詁学者は、宋代典籍の一にあげてある茶筅の形状を思い起こすに苦しんでいる。現今の茶は、葉を碗に入れて湯に浸して飲むのである。西洋の諸国が古い喫茶法を知らない理由は、ヨーロッパ人は明朝の末期に茶を知ったばかりであるという事実によって説明ができるのである。
現代語訳
不幸なことに十三世紀、モンゴル民族が突如として起こり、元の暴政によって中国はついに略奪され征服され、宋代文化の産物はことごとく破壊されました。十七世紀の半ばに国家再興を企てて中国本土から起こった明は内紛に悩まされ、次いで十八世紀、中国は再び北方の満州人の支配するところとなりました。風俗も習慣も変わって昔の面影はなくなった。粉の茶はまったく忘れられています。明のある訓詁学者は、宋代の書物の一つに挙げられている茶筅の形を思い出すのに苦しんでいます。今の茶は、葉を碗に入れて湯に浸して飲むものです。西洋の国々が古い喫茶法を知らない理由は、ヨーロッパ人が明の末期に茶を知ったばかりだという事実で説明できます。
解説
この章句が説くこと
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『茶の本』第二章 茶の諸流・老いて夢よりさめた後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想的なものではない。かの国の長い災禍は、人生の意義に対する彼の強い興味を奪ってしまった。彼は現代的になった、すなわち老いて夢よりさめた。彼は詩人や古人の永遠の若さと元気を構成する幻影に対する崇高な信念を失ってしまった。彼は折衷家となって、宇宙の因襲を静かに信じてこんなものだと悟っている。天をもてあそぶけれども、へりくだって天を征服し、またはこれを崇拝することはしない。彼の葉茶は花のごとき芳香を放ってしばしば驚嘆すべきものがあるが、唐宋時代の茶の湯のロマンスは彼の茶碗には見ることができない。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・古典的・ローマン的・自然主義的煮る団茶、かき回す粉茶、淹す葉茶はそれぞれ、唐、宋、明の気分を明らかに示している。もし、芸術分類に濫用された名称を借りるとすれば、これらをそれぞれ、古典的、ローマン的、および自然主義的な茶の諸流と言えるであろう。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・宋人の茶に対する熱狂宋代には抹茶が流行するようになって、茶の第二の流派を生じた。茶の葉は小さな臼で挽いて細粉とし、その調製品を湯に入れて割り竹製の精巧な小箒でまぜるのであった。この新しい方法が起こったために、陸羽が茶の葉の選択法はもちろん、茶のたて方にも多少の変化を起こすに至って、塩は永久にすてられた。宋人の茶に対する熱狂はとどまるところを知らなかった。食道楽の人は互いに競うて新しい変わった方法を発見しようとした、そしてその優劣を決するために定時の競技が行なわれた。徽宗皇帝は、あまりに偉い芸術家であって行ないよろしきにかなった王とはいえないが、茶の珍種を得んためにその財宝を惜しげもなく費やした。王みずから茶の二十四種についての論を書いて、そのうち「白茶」を最も珍しい良質のものであるといって重んじている。
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『茶の本』第一章 人情の碗・ヨーロッパに茶が伝わるまでヨーロッパにおける茶についての最も古い記事は、アラビヤの旅行者の物語にあると言われていて、八七九年以後、広東における主要なる歳入の財源は塩と茶の税であったと述べてある。マルコポーロは、シナの市舶司が茶税を勝手に増したために一二八五年免職になったことを記録している。ヨーロッパ人が極東についていっそう多く知り始めたのは、実に大発見時代のころである。十六世紀の終わりにオランダ人は、東洋において灌木の葉からさわやかな飲料が造られることを報じた。ジオヴァーニ・バティスタ・ラムージオ、エル・アルメイダ、マフェノ、タレイラらの旅行者たちもまた茶のことを述べている。一六一〇年に、オランダ東インド会社の船がヨーロッパに初めて茶を輸入した。一六三六年にはフランスに伝わり、一六三八年にはロシアにまで達した。英国は一六五〇年これを喜び迎えて、「かの卓絶せる、かつすべての医者の推奨するシナ飲料、シナ人はこれをチャと呼び、他国民はこれをテイまたはティーと呼ぶ」と言っていた。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・足利義政と茶の湯の確立南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。十五世紀のころには将軍足利義政の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地歩を占めてはいるが。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・人いずくんぞ廋さんや芸術と同じく、茶にもその時代と流派とがある。茶の進化は概略三大時期に分けられる、煎茶、抹茶および掩茶、すなわちこれである。われわれ現代人はその最後の流派に属している。これら茶のいろいろな味わい方は、その流行した当時の時代精神を表わしている。と言うのは、人生はわれらの内心の表現であり、知らず知らずの行動はわれわれの内心の絶えざる発露であるから。孔子いわく「人いずくんぞ廋さんや、人いずくんぞ廋さんや」と。たぶんわれわれは隠すべき偉大なものが非常に少ないからであろう、些事に自己を顕わすことが多すぎて困る。日々起こる小事件も、哲学、詩歌の高翔と同じく、人種的理想の評論である。愛好する葡萄酒の違いでさえ、ヨーロッパのいろいろな時代や国民のそれぞれの特質を表わしているように、茶の理想もいろいろな情調の東洋文化の特徴を表わしている。